☆special短編☆

□海馬社長のとある1日
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恋は人を変えるとは、よく言ったものだ。






KCの若き総帥、海馬瀬人の1日の仕事は、スケジュール確認から始まる。

「社長、本日のご予定を確認させて頂きます。9:00より新商品についての会議、9:40より各開発部の視察、10:20より新しく傘下に入った3社の社長がお見えになりますので木馬様と共にご同席を。11:00には……」

厚革の手帳を手に、粛々とスケジュールを読み上げるのは海馬と木馬が信頼を置く、十年来の腹心の部下、磯野だ。
彼は海馬たち兄弟が幼い頃より、以前の社長であった海馬剛三郎に仕えていた部下だが、海馬が新社長の座についた時には誰より早く忠誠を誓い、自ら率先して他の部下たちをまとめ上げ、新しく始まったKCのためにずっと尽力し続けてきた人物である。
海馬と木馬の義父である剛三郎が失脚したから手のひらを返して新社長に仕えた、というより磯野の場合は元々剛三郎の手段を選ばぬ非道さを快く思っていなかったようで、幼くして我欲の塊のような義父に非情な仕打ちで英才教育を叩き込まれていた海馬に憐憫の情を抱き、それ以上に力になりたいと思っていたようだ。
以前より剛三郎の目を盗んで密かに海馬に助勢し、陰ながら海馬兄弟の後ろ見を行っていた。
だからこそ、海馬が剛三郎を実力で退け、社長の座を奪い取った時、誰より大手を挙げて喜んだのは磯野だったのだ。
海馬は磯野の所懐など知るはずもないが、それでも磯野を最も信頼できる部下として側にいることを許容した。
海馬の口から直接謝意の言葉を言われたことはなかったが、磯野にとってはそれだけでもう十分であったのだ。
幼い頃より血の滲むような努力をし続けてきた海馬の姿を何十年も側で見守ってきた磯野にとっては、彼の力となり支えとなることが至上の喜びなのだから。

「……以上が午前中のスケジュールです。午後からは取引先に出向いて頂き、契約交渉後、会社に戻り来月からの我が社の経営計画を作成すれば、本日の主要スケジュールは終了でございます」
「……会議の資料は」
「準備できております」
「木馬への連絡は」
「既に済ませてございます。10:00にはこちらに到着されるそうです」

一問一答つつがなく返す磯野に海馬はスッと目を細めると、組んでいた指を解き、背中を椅子に深く預けて瞼を下ろした。

「コーヒーを一杯淹れてこい。眠気が覚める、濃いものをな」

他の部下には決して頼まないお茶汲みを、海馬は磯野に命じる。
己の主が心を許さない相手からのものを口にはしないことをよくよく熟知している磯野は、真っ黒に塗りつぶされたレンズの下で目元を緩めた。

「かしこまりました。では、失礼致します」

深々と一礼して、磯野が静かに退室していく。
起き抜けからずっとパソコンに向けていた双眼を労るように、目頭を指先で軽く押さえながら深く息を吐いた海馬の胸ポケットが、ふいに震える。
胸の内ポケット、大事そうにしまわれたそれは、もはや海馬にとって手放すことのできないプライベートツールになっていた。
アイスブルーの色をした、一台の携帯。
何の変哲もない、今や持っているのが当たり前となった文明の機器が、よもやかけがえのない繋がりになると、誰が想像できただろう。
いつでも電話やメールができるから、大切なのではない。
誰とでも繋がれるから、かけがえのない物なのではない。
あの少年と繋がれているから、かけがえのない、たった一つの大切なツールなのだ。
あの少年が自らの手で選んでくれたから、ただ一つの大切な物になったのだ。
何の変哲もない、どこにでもあるようなありふれた小さな機械が、彼を介することで何より特別な物へと存在意義を変えた。
だからいつも、胸の携帯が震える時、海馬の頬は本人の意思とは関係なく緩んでいく。
たった一つのちっぽけな携帯というツールを、手放すことのできない貴重な物へといとも簡単に変えてしまう、あの少年からのメッセージが届いたのだと分かるから。
緩んだ口元はそのままに、閉じていた瞳を開いた海馬は胸ポケットの携帯を取り出す。
パカリと開いた画面には、海馬が目下懸想している少年からのメールが届いていた。
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