小説1

□存在の証明
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「誰にも並列化出来ない、共有する事の出来ない記憶がここにある」

囁くように、しかし明瞭な声でバトーはそう呟いた。


机の上には50cm程の古い振子の掛け時計。
素子がセーフハウスを訪ねると、裏に捨ててあったとそう言ってバトーは背中を丸め時計を直していた。
ダイニングテーブルに並べられたシンプルな幾つかの工具。
大小のドライバーがあれば直す事が可能かも知れないその古い時計は、構造の複雑化が進む今の機械とは比べ物にならない程簡素で、美しい構造を持っている。
外れたゼンマイを締め付けながらバトーはそうも言った。

素子は、それをただ見ていた。
テーブルの向かいに座り、ビールを飲みながらバトーが時計の琥珀色に曇った硝子を拭き、螺子を締め、あるいは緩めるのを黙って見ていた。

「電脳化は俺たちに情報と記憶の並列化を可能にさせたが、本当に記憶や情報は【並列化】出来ると思うか?少佐」

時計に落としていた目線を上げ、バトーは問う。
素子は「わからないわ」と答えた。

「並列化していた筈の情報が個々の中で異なった反応を起こし、異なった自我を形成する。与えた情報は同じ、しかし違った自我がそこには生まれて来る…タチコマがそうであったように。
受け取る自我や器が変われば、並列化した筈の情報も同じではなくなるのかも知れない、あなたが言いたいのはそういう事?」

「情報化された記憶は、情報化された時点でオリジナルとは異なったものになる。多分、そんなところだ」

バトーは時計の鐘を鳴らした。
古い時代の音、記憶には無い筈の古い風景の音、または空気の。
それは鼓膜を震わせ、体に染込む。
生身ではないその体にも。
知り得る筈の無い古い記憶、それをかつて所有し、それと共に時を刻み、生きた何かの知る事の無い時間と経験。

「出会う事のない思い出の為に出来ることもある」

バトーはそう言って時計のケースを閉めた。
ゼンマイが切れていた時計は振子を揺らしてもかつてのように時を刻むことは無かった。
それでも、存在が消えてしまわなければ刻むことの出来る時というものが在る。
存在が消えても、あるいは、記憶として刻まれる何かが。



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