小説1

□心の在処1
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鳥の鳴き声が聴こえた。
遠くを走る電車の音。
昨日一日降り続いた雨が止み、軒から雨粒の名残が地に滴る不規則なリズム。
回したままになっている換気扇の低い唸り。

そして、湿度の上がった部屋の空気を入れ替えようと、寝しなに細く開けた窓を思い出す。
部屋の中の空気は数時間かけて新鮮なものに入れ替わったようだった。
(そうか、だからこんなに外の音がするのか)
普段聞き慣れない窓の外の音。
晴れた朝の空気が部屋に満ちていた。

ぼんやりとした意識のまま、習慣で煙草を欲する。
枕元に置いたままになっていた筈だと思うが、思い直した。
腕の中には、まだ眠りの中にいるしのぶがいた。
裸の肩がゆっくりと規則正しく上下している。
その光景に後藤は僅かに慄いた。
感慨に混じって、明らかに自分が慄きを感じている事に気が付く。


しのぶが躊躇いながらもこの部屋を自ら訪ねてくれるようになって、半年近く経つ。
とは云え、それは決して頻繁な事ではなかった。
おそらく今回で4度目か、5度目か。
それでも後藤はこの部屋で、しのぶに口吻けはおろか触れた事すらなかったのだ。
いつも酷く緊張したしのぶの肩が、後藤を躊躇わせた。
しかし、そんなことも只の言い訳で、しのぶに触れてしまう事を酷く躊躇い続けていたのは、後藤の中にある恐怖心だった。
得る事の恐怖。
それを、失う事の恐怖。
経験が生んだ自らの臆病さに辟易する。
僅かに触れる事すら躊躇する程に、その愚かな恐怖心は後藤を雁字搦めにした。

静かに目で追いながら、それでも触れる事をせずにしのぶを帰してしまった後。
後藤は何時も灯を落とした部屋で、吐き出した煙草の煙を呆と見つめながら考えていた。
なぜしのぶはこの部屋を訪ねてくれるのか。
酷く緊張した肩を思い出しながら、後藤はしのぶの心の在処を探した。
そして自らの臆病さに、焦燥にも似た静かな怒りを感じていた。


昨晩、また何時ものように触れる事も無いまま、しのぶを玄関で見送ろとした時。
不図目線を上げたしのぶと視線が重なった。
形容し難いその表情に、思うよりも先に体が動いていた。
掻き抱くように頭を引き寄せ、口吻ける。
腰に回した腕にバランスを崩し、凭れかかるように傾いたしのぶの体を抱いて後藤は夢中でその唇を貪った。
口吻けたまま抱き上げて移動し、寝台に落としても、しのぶは後藤の名を切れ切れに呼ぶだけでそれ以上は何も云わず、後藤を受け入れた。


執拗なまでに求め、貫いた昨晩の行為を思い出して、後藤は布団の中で静かに嘆息する。
箍が外れるとは正にこの事だ。
くぐもった喘声を漏らして果てたしのぶを更に追い込んで、意識を失う程その体を求めた。
汗ばんだ肌の匂いも、後藤を受け入れた湿った肉の感触も、快楽に揺れる瞳も、何もかもが蠱惑的で歯止めが効かなくなっていた。
甘く気怠い余韻は確かに体に残っている。
然し一方で、急激に襲って来る恐慌が後藤を苛んだ。
しのぶが目覚める事を望みながら、目覚めた後のしのぶがどう後藤を見るのかを畏れた。
箍の外れた己を晒し、しのぶを思うままに暴いた、自分を。


しのぶはまだ、微睡みの中に居る。
その瞼が開いた時、自分を見る瞳に諦めではない愛がある事を、後藤は祈るように願った。





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