坐禅からの学び
思いについて出てくるものに対して相手にしない処理しない。

ものの真相や本当のあり方どうなっているかを見極める。

人間の考え、見解、そういうものを差し挟んだら事実が歪められる。

人が悩んだり苦しんだりするのは考えの上で起きることです。

思いというものは出てきたら、すぐ止んでしまう、手をつけていないのになくなるようになっている。

坐禅はあると錯覚している自分を忘れる行。

何とかしようというものがなくなれば問題解決。

問題にしなければただ事実だけあって問題は生じない。

不安や痛みを感じても失くそうとはしない。そういう思いがあったで終わり。

自分の様子を問題にしないと自分を何とかしようという主は消える。

自然体とは考えで扱わない、放っておく、何もしない、そのまんま、流れに任せる。

頭の中の思いを相手にしないで今目の前にある様子、それだけにいる。

坐禅と日常は別。

思い通りにしようということをやめる。

頭を使わない五感の作用を学ぶ。

言われたままにしておく。手をつけて何とかしようとしない。

自分とは観念、思考しなければ失せる。それが坐禅。

たった今の様子、これからというものはない。

この体は宇宙の働き、思い通りにはならない。

考え方を離れている今の事実が重要。

一心不乱。本気で脇目も振らずにやる。

言葉の意味を追いかけたりするのはやめる。

思量分別を中心に生活をすると自分の思考を中心にするから、怒り、欲、そういう方向にしかいかない。

見えていることを頭で取り扱う、見えていることとは随分違う。

同じことを言われても腹の立つ人もいる、何ともない人もいる。それは人それぞれの聞き方と受け取り方の違い。

対象を立てる習慣がある。事実に学ぶこと。

今あることをある通りに見えていることに気づく。

何がどうなって、こうなると見るのは違う。

頭の中で解らないことを解釈しようというのではなく、今ある確かさで学ぶ。

良いとか悪いとか選別するが、そんな心の細工をするから、本当の自分がつかめない。

坐禅は自分の真相を知る唯一の道。

坐禅で思考に振り回されて生きてきたことに気づく。

その時その時、起きてくることをこなしていけば必要なものは入ってくる。

見えるもの聞こえるもの、全て自分の生きている様子。

分離区別対象はない。

不安で動き回ると不安が現実化する。

時間があると思うのは変化するものに同化しているから。身体とか思考。

抵抗、緊張が自然な流れを妨げる。

生き方とか使命とか、探す必要はない。

夢、希望、理想に巻き込まれないこと。

生老病死、それは無常で思い通りにならない。

過去があるように思うのは記憶を繋げて思考の上で作られたから。

今までの出来事はある。そこについてくる思考が幻想。

いつも今この瞬間しかない。時間は存在しない。

事実とは思考以前に存在する。

坐わることは意を弱めるトレーニング。

止めること〜悟りのメカニズムを知ろうとすること。それは自分の知識の範囲内でしか理解出来ない。

坐禅するときの心構えというのは内からも外からも何がどうあろうとも良いとか悪いとか言って手をつけずにそのまま捨てておく。気にかからないようになる。

任せる〜自分の方からしない、六根に任せる。

好き嫌いで使うのを止める。その通りにあるだけ。今ある、そのものによらなければそのものは絶対わからないという基本的勉強のやり方。

本当の自分を知ろうと思ったら、今の動きがある。その動きのまんま、手つかずでいい。全身あげて、その通りにそういう活動しているから。

参禅とは師に参ずるということではない。自己に参ずるということ。

苦悩の原因を他に求めず、自己の内に見いだすのが仏の教え。

本当のことが知りたい、もっと本当のことがあるのではないか?今の他に何か本当のことがあるような気がする。

説法は人のことを聞くのではない。自分のことを自分で味わう様子が説法の様子。

人の言葉を正しく、そのまま聞く、探らない、裏を読まない、追わない。

人は今の中に過去を立てる、昨日は〜と。

事実は比較出来ない、二つのことを同時に出来ない。

子供のことを悩んでいるという。実は子供のことではなく、私のこととして自分自身が悩んでいることに気づくべき。

薪が燃えて灰になることを知っている。
そのために今ここにあるものをある通りに見えていることに気づかない。

明日の心配をして昨日を悔いる。今はこの文字を見ている。

無分別の世界。一緒になる。関係がなくなる。相手のない世界。

自分の考え方を使わないでおいてみる。人は思いによって不自由になる。

追求しない、善し悪しでものを見ない。比べない。

4つの門
生老病死、どう生きるかという命題を与えられた。

善し悪しを止める。縁のまま生きる。

解らないことを解決しようとしている。そうではなく、今ここの確かさで学ぶ。

好き嫌いの感情があると物事を公平に見ることが出来ない。

立つ寝る、同時に二つのことは出来ない。矛盾はない。

考えは物事を並べて見る、だから矛盾が生じる。

坐禅は自分の考え方で自分を整理するのではない。そうしようとする自分を置いてみる。

本当の修行は考え方で自分を変えていくような修行ではない。

生涯只一度、只今の出逢いのみ。

坐禅はやればやっただけ必ず効果はある。元に戻らない。

どうしても眠いとき5〜10分、寝てからやればいい。

社会生活は不安です。それが社会生活で除かれるという事がある。

坐禅をしたら相場がよく当たる、それは欲がないからです。
欲がないと確かなものが見える。

思いが出るとすぐ雑念と決めつける、それが雑念。
失くそうとするから間違える。どんなに思考が出ても、それは出たり消えたりしている。自他という関係がそれによって失くなってしまう。
自分に行われている今の真相だから、良いでもないし、悪いでもない。

相手のことを干渉するということは自分の方に欲求するものがあるということ。

悩みというものは自分を中心にして自分の都合の善し悪しを考えて取り扱うところから出てくるもの。

禅は自分の事実を実証する道。

怒る、悔しい、嬉しい、みんな自分の事実、この事実の他に事実を求めて、自分の都合の良いように探す、みんな人間の考え。

今この身体(六根)だけで足りる。知識、経験、記憶というものを借りなくてはならないようなものは全くない。
生活の中に私というものが立つと不自由になる。

人間すべて解放して自分はただ受け身になっておけばいい。

出てきた思いはさっさと逃げて跡形はない。今の動きに参ずること。

坐禅は見聞、覚知、一切のものを無条件にそのまんま受け入れて何ともない人になる。
考え方を問題にせず問題にしようとする主体を離してしまうことです。

縁というものは別にあるものではない。人の見解が中心になると縁といわれる対象ができる。
人の在り方(事実)は対象というものを全部切断している。

追いかけるのを止める、ただそのことのみ。他に尋ねようのない程、きちんとしている。今の自分の様子。

6感の作用そのまま、一切の探りをみな捨てて、そうすると必ず解決済みであることがはっきりします。

今触れていることしかない。その時、そのことがその通りにあるだけ。そのように単純に生活する。

今まで何を学んでこようがどんな経験があろうがそれはそれ、ただ今の事実に学ぶ。全てが底抜けに廃っている事実が今ある。

考えでものを動かすのではなく、ものの方が身を動かすのです。

聞法〜前に聞いたことと比べて聞くのは愚です。それは吟味、批評で自分の見解を持っている。

話を聞くとき理解しようとするがそれが間違いである。一生懸命聞かなきゃ解らないじゃないか!と誰が教えたかのか!

人の知る聞く以前の様子、人の見解を離れている事実。これは作り事ではない。

今の事実より記憶体験を大事にして生きているのでは?

見える、聞こえる、味、臭い、全てのものがそれ自体がそのまんまだったら、問題は起こらない。その他に何かを求めるから。

坐禅をするといろいろな事が起きる。それは人間の考えの世界から1歩進んだ人です。

今まで妄想の世界にいて自分というものがどうなのか考えたこともない。全然知らなかった。

思考はあって良し、思考を失くすのではなく、思考が必然に働くように出来ているので、その働きに任せればいい。

生まれてきたこの自分、これが本当の私と思うのは誤りです。本来の私という存在は環境と共に活動している公の存在。

一切のものを捨てて坐禅すること。
考えでどうこうするのはやめる。

身は人間の思いに関係ない。

理想もへちまもないのがこの身の実体。

特別に自分の都合のいいようにやりたいというのだから、無理が出てくる。それが自我の要求。

なりたかったら、なろうとするのをやめる。

人の為になる人、それを基本にしていけば大丈夫。

人が嫌うことをやる人になったら、儲かる。

自我を可愛がり、名誉、プライドにこだわれば益々生きることが苦しくなる。

自分の思いを満足させたい、名誉とか利欲、それを満足させたい、それをいくらやっても救われない。

坐禅をしたら、一切の今までの苦悩の根源がすっかり根絶やしに出来るのです。

ありもせぬ自我を認めて執着して離れないから六道輪廻とか迷いとかが起きるのです。

この者(身)を自分だと認めるから迷う。
永遠に生きているとか生きていないとか言って自分を認めているところに問題がある。

自分の生まれたことも死も知らない。
故に生死の界を離れて永遠に生きているということがある。

この者(身)の真相とは何かということを知ってみなさいと釈尊は教えられた。そうするとそのようなことは解消する。

禅の悟り〜無明が破れる、十二縁起の外に出る、苦はなくなる。

ワンネス、真我、光、私はいない、全て一つ〜
認識機構が止みきっていない中で縁に触れているので私が残る。
見ている私がいるのでそういう表現になるだけ。

自分が残っているのであればそれは悟りではない。無我であったことを知るのが悟り。

無我が分かるから〜
執着がなくなるから〜
こういう説明する人は怪しい。

思いは次々出てくるもの。

無我なので心はない。心の浄化なんて忘れた方がいい。

不安、イライラはほっとく。そのまま、何もしない、流れに任せる。

毎日長く座っていると楽になる。

独参は自分に合ったアドバイスをしてもらえる。動画は聞き流す程度、本や勉強は目指す坐禅になる。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
●人はいつか死ぬ、生きてるものはいつか死ぬようになっている。
●人が死んでその死を問題にして騒いでいるのは死んだ本人ではなく、その死を見聞きした人たちである。
●生死という問題を生きてるうちに解決することが大事、人間的な私というものがなくなると生死がなくなる。
●人間的な私があるから、生死が問題になった。だから坐禅はやる価値がある、だから四六時中かかってやればいい。
●死んでる人を見る、だから死が問題になる、それは自他が生じているから(思考)
●思考を放っておく、問題でなくなる。
生まれたことも知らない、死んだことも知らない。生死は問題ではない。
人間的な思考が問題としているだけ。
●今触れていることだけ、その事だけで思考が止む。底があるから現在、過去、未来が生じる。底が抜けると今だけになる。
●あるものがなくなるのではない。いつでも触れた有り様にある。それ以外はない。
●考え自体は問題ないけど考え方で進んでいくと物事がふさがっていく。考え方を取り扱いするから。それを放っておく。それが坐禅。
●思考、考えを放っておきゃいいんです。捨ててかかる。これが廃ってしまうと私というものが消滅するんです。
●比較するのは思考で自他が生じている。
●思考で相手にしているのは過去と未来だけ。今というのは思考で取り扱いが出来ない。
●本来の有り様と人間としての私という有り様は大きな隔たりがある。だから坐禅が必要。
●この世で地位、名誉、財産をいくら得ても絶対的な安心や満足を得ることは出来ない。
●思考から手をつけると問題が起きてくる。
●いつだって今、だから今を離れちゃぁダメ!
●思考が自他を生じさせる!
●完璧に出来ているから、探し求めることは要らない!
●原因結果、因果関係はない。その時あっただけ!
●考え方で都合の善し悪しで思い通りにしようとする。
●理由を探したがる、そして原因と結果の二つになる。
●前に置くものを置いてはいけない。一年以内とか二年以内に何かをしようとか、それをしようとすると距離が出来る。そこへ行こうとする、向かおうとする、それは今の有り様に不足不満があるから。
●今の有り様でいい。(間)を置かない、何かになろうとしない、作仏を図ることなかれ!
●探し求める、追い求めるってことは要らない!思考中心になると何かを欲しがる。
●起きていることをそのまま済んでいるかどうか、思いが湧いてもその思いで済んでいるか、それに取り扱いをすると問題が起きてくる。
●考えないでおく、見える聞こえる思う感じる、、、
どのように意識が動こうが考えない。
息をしてこの雨音になればいい。
考えで説明しない、言葉を発しなければ発するものが消えるのです。
ものと一つになるということが達成されるのです。
●悟りとか境地とか、自分を失くさなきゃならないとか、考えない。
考えて自分を運ぼうとすると自分の虜になってしまう。何かになる必要はない。
●何もしない、どうしようもない、そのまんま座ればいい。何もない、どこまでも今になりきる。
●様々な問題や悩みや苦しみについて何とかしたいとすればするほど苦しみは大きくなる。
●思いを認めるとはただ苦しい、痛いということがあるだけ。そのまんまにしておく。何とかしようとしない。
何とかしようという者(自我)が消えていく(無我)
●ないもの(自我)をあるとして問題にしている。無我とは我はない、無心とは心はない、だから相手にしない、問題にしない。
●この身を投げ捨てる気持ちで座る、そうでないと坐禅が坐禅にならない。
●仏として生まれてきた、それが観念で眩まされて、わからないようになっている。
●疑問が起きていたら、何かしている。求めている。そういうとき、自分をよく見つめてみたらいい。何かしていないだろうか?それを止めればいい。
●湧いてくる思考をどうにかしようではない。やろうとしていることを止める。坐わるしかない。今の様子、それしかない。今の様子のまま、手をつける者がいなくなればいい。(無我)
●坐禅と日常生活(坐禅出来ない時間)は分けて考える。
●坐禅する時間を増やす、それによって意を刺激する時間を減らす。
●疑問が出てきたらメモして独参して質問してもいい。
●何かを考えて行動しましょうという生き方をしてきた私たちが全く逆の過ごし方をする、何もしない、考えに手をつけない、そのまんま、そういう過ごし方をするというのが坐禅、だから、落ち着かない、ソワソワするというのは当然です。
●坐禅中は心の状態はどうでもいいのです。落ち着かない、ソワソワをそのままにしておく。ただ何もしない、そのまんま、考えに手をつけない、そこから外れたらダメなんです。
●坐禅中に聞こえる音、それに対する反応、それは問題ない。救急車、すぐ近くで止まった、隣の人かな?、、、
●どこかで坐禅を学んで坐禅はこういうもんだと聞いてそのイメージに向かうとか、無念無想とか雑念を払うとか、それが坐禅と思い頑張る、それは作為で考えに手をつけているということです。
●修行するのに今やっていることと違うことを目指すのが修行と思っている。そうじゃないね。今やっていることしかないというのが修行。

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