☆仏道「只管打坐」への道☆
仏道とは自分とは何かを解決する道
・自分という認識は生まれた時、持っていなかったという事実
・自分という認識は後天的なもの、生まれてから後で教えられたもの
・何かをしている時、同時に自分という意識はない、後から振り返って、それをしているのは自分と認識する
・意識し続けると同時にあるような気がする、けど自分とは事後の心の動きであって、実体はありません。
・自分というものがあると錯覚しているから、日常いつも自分中心にものを考えて迷う、だから仏教では無我という
坐禅はあると錯覚している自分を忘れる修行
・自分を観察しない
・見える聞こえる思う〜自分がしているという意識がなくなる
・いずれ死んでしまう肉体の働きで見える聞こえる思うだけのこと
坐禅の工夫〜自分を振り返らずに坐る
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今の様子で坐る。嘘をつかない。
考えっぱなし、思いっぱなしでいい。
何とかしようとする、、、それが自我。
何とかしようとする、、、同じことがずっと続くだけ。
雑念が出て困る者が我、そのままにしておいて困るのが我、どうしたらいいかと思うのも我、それを思わなければ無我
我を失くすのではなく、最初から我はない
自分を見なければいい。反省しない、思ったら思いっぱなし、見えたら見えたまんま、聞こえたら聞こえたまんま、無反省、無責任
仏教の救いとはこの身が無常であること、思い通りにしようという努力を止めたときに、実現するという。成長とか向上は関係ないのです。何とかしようとするものがなくなれば問題解決です。問題にしなければ事実だけがあって問題は生じません。不安や痛みを失くそうとすれば苦悩は深まります。
自分を手放すには今に成り切れば良い、それには思いや考えを問題にしなければ良い。
今に成り切れば自己は失せる
坐禅会や接心
日常生活とは違う何かを求めるのは止めて只坐る
今に正直に坐る。
坐禅会や接心から日常に戻る、普通で良い。
活かされないなあ〜変わらないなあ〜と思いながら自己の様子を見ている、自己の資質を変えるのが目的ではない。
独参しないとなかなか自分のことがわからない。自分とは観念、知識。
生老病死、思い通りにならない。
自分というものはない。宇宙そのもの。
上手くいかない時、工夫してやらないといけないのではないかと思う、そこで間違う。
自分があるように思う、だから何とかしたい、何とかしようとする、どうにもならない。自分というものを確かめたいが確かめようがない。しかしあるような気がする。
何かをしている時、寝ている時、自分はない。
自分とはただの思考、思考している、それが自分と思っているだけ。
思ったり考えたりしなければ自分なんてない。
ない自分をなくそうとか何とかしようとすることは出来ない。
見えるもの聞こえるもの、その通りに参じていく。思考、それをどうにかしようとするのではなく、思ったもの、考えてしまったもの、それは仕方ない。
自分があるなと思ったら、思ったで終わりにする。
だから坐禅は何もする必要はない。工夫する必要もない。