「ふぅ…」
カナンは額から流れ落ちる汗を腕で拭いながら、一息ついた。
食堂で提供された食事には、毒物が混入されていた事で一時は現場が騒然となった。
そんな中、ジュードや仲間と共に毒を摂取してしまった選手達の治療していたのだ。
「よかった…生きてて」
ジュードのその言葉に、カナンも小さく頷く。
奇跡的に、死者を出す事はなかった。
「皆、お疲れ様」
「いや…それはあんたも同じだろ」
アルヴィンが、濡れたタオルを顔に押し当てながらさらりと指摘する。
患者を運んだり、混乱する会場内の選手達を別の部屋へ誘導したりして、かなり体力を使ってしまった。
ローエンやユルゲンス等の選手関係者も協力してくれて、表面上はなんとか騒動を沈静化できた。
不測の事態への収拾により、周りは相当疲れている。
一番大変だったのは、医療従事者だろう。
患者の治療は勿論、今回の事件で間接的に精神的なダメージをもらった者もおり、そういう対象者のカウンセリングにあたっていた。
そして今回の功労者は、カナンである。
食堂で、彼女が即座に使ったあの術が、症状を訴えた者全員の毒の進行を妨げていたのだ。
「カナンさんがいなかったら、あの毒物事態も特定できませんでしたからね」
ローエンは顎に手を押し当てながら言う。
患者の体内から検出された毒物は、医学生であるジュードすら見た事がないものだった。
しかし、闘技場で勤務している医師さえも知らないそれが何なのか…を解明したのはカナンだった。
『この症状…【ルコレプゾン】に似てるわ』
患者達を診察していき、カナンはその名を呟いた。
それから、ジュードや他の医師に指示して特定の材料を集めてもらい、解毒剤を調合した。
それを全員に服用させたところ、徐々に容体が安定していき、先程何名かは意識が回復した。
「カナンさん。改めて訊くけど、【ルコレプゾン】って…」
「ジュード君や医師の人達が知らないのも無理ないわ。その毒物は…この世界にないものだから」
【ルコレプゾン】とは、ある異世界で取れる植物の根に含まれている毒の一種だ。
体内に取り込んだ場合に起きる症状は、強烈な眠気と麻痺。
類似する毒もあるが、真っ先にその名が浮かんだのはそれを見極めるだけの力量を与えてくれた己の師のおかげである。
「解毒剤の材料が、この世界でも手に入るもので済ませられたのが幸いだったわ」
もし、一つでも材料が手に入らなければ、代用品を見つけださなくてはならなかった。
その事で安堵する一方、カナンは妙な引っ掛かりを覚えた。
「…うーん」
「カナンさん、どうしたの?」
「ん?…あぁ〜、解毒剤の調合法を闘技場の医師にも教えた方がいいかと思って」
不思議そうに尋ねてきたレイアに、カナンはそう答えたものの、実際に考えていた事は違う。
…混入されていた毒が、どうも腑に落ちないのだ。
しかし、この場にいる全員の緊張が解れてきつつある今、この疑問を口にするのはまずいだろうと伏せる事にした。
「それにしても…犯人は何故こんな酷い事をしたんでしょう…」
『ま、まさか…一人でも決勝相手をへらすための…どこかのチームによるインボー!?』
不安な表情のエリーゼの言葉に触発され、ティポが犯人が誰なのか推理を言い始めた。
この部屋に、カナン達以外の対戦チームの関係者がいなかった事が幸いだ。
迂闊な発言で、余計な混乱がまた生じていただろう。
だが、ティポの言う犯人像が否定できないのも事実だ。
「いや、違う」
シーン…と奇妙な静寂が漂う中、ミラが口を開いた。
「このような卑劣な手口を使う連中に、私は心当たりがある」
「だ、誰なの、それ……」
ジュードが固唾を呑んで、ミラに聞き返した。
いつになく深刻な顔を浮かべるミラを見て、カナンは察した。
今回の事件を引き起こした犯人の狙いは、ミラだったのだ…と。
*** ***** ***
イザヤの前に姿を現したイタチは、至って冷静に言葉を返した。
「久しいな…イザヤ。本来なら、多少は近況を語るべきところだろうが、生憎とその暇がない」
「…尾行していた張本人がそれを言うか?」
皮肉を込めて矛盾を指摘すると、イタチは「そうだな」と軽く受け流す。
「単刀直入に言おう。イザヤ…この世界から速やかに撤退してくれ」
「…?」
「正直、お前を巻き込みたくない。…この先、起こるだろう動乱に」
敵勢力に与しているとはいえ、イザヤもイタチとは出来るだけ戦いたくないのが本音だ。
立場は違えど、イタチもまた彼なりの信念があって行動しており、時に共闘する事もある。
面識を持ってから多少の交流を経て、彼の本来の人柄を理解している事もあり、少なくとも好きな人種である。
「その動乱の影で、この世界を壊そうとしているのはどこのどいつだ」
しかし、敵対している状況である現在、彼の忠告を素直に受け取る事はできない。
「…やはり、引かないか」
「お前の主はどこにいる?」
「黙秘する」
「しょうがない…なっ!」
イタチは咄嗟に顔を数ミリ程度ずらした。
ほんの数秒の差で、彼の顔横をあるモノが通過し、壁に突き刺さった。
…黒の羽根と白の羽根を連想させる【苦無】だ。
常に長刀を使用しているイザヤだが、使える武器は他にもあるようだ。
視線を前へ戻すと、イザヤがいない。
すると、イタチの顔の右斜め上からイザヤの脚が迫ってきた。
回し蹴りが直撃する手前で、イタチは腕でそれをガードした。
「体術でくるとは…」
いつもとは異なる戦法でくる眼前の好敵手からの攻撃を、イタチは紙一重で防御し、回避していく。
…無駄のない動きと的確に急所を狙ってくる正確性。
気を抜けば、地に伏してしまうだろう。
「イタチ、あの男は…何を企んでいる?」
打ち込んできた拳を掌で受け止めるや、イザヤが問いかけてくる。
「…何とは?」
「とぼけるな。お前の主が、『二つの世界』を標的に選んだ理由…本来の役目とは異なる思惑”があるのだろう」
イタチの主君であるあの御方は、己が務めのために世界に審判を下す。
だが、イザヤは勘付いているようだ。
主君が、リーゼ・マクシアともう一つの世界を侵食しようとする理由が他にもある事を…。
「その仮定が正しいとして…何をする気だ?」
「内容次第で…ろくでもない事なら、全力でつぶす!」
イザヤはそう宣言すると同時に、イタチの右肩を掴んで鳩尾に膝蹴りをいれた。
その攻撃を諸に浴びて、イタチは苦悶の表情を浮かべて床に片膝をついてしまった…かに見えたが…
「…やれやれ、やはりお前と戦うのは骨が折れるな」
「なにっ…!」
そう言った直後、イタチの身体が漆黒色に染まっていき、複数の烏となって空へ羽ばたいていった。
…逃げられた。
気配を辿って追いかけるか否か、と二つの選択が頭に浮上する。
だが、周囲で闘技場の関係者が何名も慌ただしく走る姿が見えた事でその選択項目は霧散した。
「まさか…」
只事でない状況に、イザヤは駆け出した。
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