◆惣流さんと渚くんの家庭事情◆





きっと僕は嬉しかったし、

反応に困ってたし、

動揺してたんだと思う。

認めたくないけど、君のその表情が、僕にはすごく、








◎君のことなんてわからない







普段から突飛な子ではあったが。ーーそして頑固な子でもあったが。
時々本当に読めない、と思う事がある。



リビングにソファーが欲しい、と突然彼女が言い出したのは、共に暮らすようになって二ヶ月が過ぎた頃だった。夕食を二人で食べるのにも慣れ始め、そこそこ雑談も増えてきた頃だったように思う。朝食は全員が揃うことも多いのだが、常に仕事が溜まり気味のミサトが夕食に間に合う事は少ない(職業柄仕方のない事だが)ので必然的に二人きりになり、そうなれば終始無言になる訳もなく。宿題がどうだとかネルフが遠いだとか。そんな当たり障りのない会話程度なら喧嘩にもならず、気を使わずに交わせるようになっていた。

そうしたある日の夜、アスカがそんな事を言い出したのでカヲルは勿論きょとんとした。自分の部屋でなくリビングに、と彼女が口にしたから。

「随分唐突だね?」
「唐突じゃないわよ。言わなかっただけでずーっと思ってたのよね、不便だって!」
「不便?」
「そう、不便。だって寛ぐ場所がないじゃない!」

この椅子じゃあご飯食べるのはいいけど休むには固すぎんのよ、と不満たっぷりに声は続く。
ふむ、とカヲルも考えて、分からなくもないとは思った。

「そうかもしんないけどさ。休むんなら部屋でも良くない?」
「本当に疲れてて部屋まで行く気力がない時だってあるでしょ。ネルフでの訓練が長引いた時とか、家に帰ってくるのだけでも億劫なのに!だから寝転がれるくらいのおっきいソファーが欲しいのよ」

それも確かにそうだ。カヲルにも似たような経験はあったし、酷い時は面倒臭くなってリビングの床に寝転んだまま熟睡してしまう。起きた時は身体が痛くなるので気を付けなければとは思いながらも、大体の時は疲労感に負けるのが常だった。
彼女がいうようにソファーがあればあの痛みを味わわなくても済むのかもしれない。ならばそれはカヲルにとっても歓迎すべき提案だ。
…が。

「って言っても、ソファーなんて持ってないしなぁ。葛城さんに相談しても買うの許してくれるかどうか。この家来てからお小遣い制になっちゃったから僕もそんな余裕ないし」
「バカ、自分で買ってどうすんの。家の備品なんだからそこは保護者が出すべきでしょ?何でただでさえ少ないお小遣いから自腹切んなきゃなんないのよ」
「でも葛城さん常に金欠っぽくない?」
「……そうなのよね。ネルフって意外と薄給なのかしら。もしそうなら将来に不安を覚えるんだけど」

そこからネルフの体制についての愚痴に話題は移行し、その時はそれだけでソファーについての会話は終わった。だからカヲルからするとこれはまだただの雑談の一つに過ぎなかったのだ。別にアスカも真剣に購入を考えている訳ではないと思い込んでいた。

だが、彼女は至って真剣だった。
それを知ったのは、次の日の朝の事。いつも朝はぐったりしているアスカがその日ばかりはかっちりと意識を保ち、出勤前のミサトを捕まえてソファー購入資金の交渉を始めたのである。習慣になりつつある朝のコーヒーをのんびり啜っていたカヲルも驚いたが、ミサトも当たり前のように驚いていた。目をぱちくりさせながら彼女のソファーに対する情熱を聞き、「まぁ確かに不便かもね」と自分の財布を覗いて。
口元を引きつらせたのち、申し訳なさそうに顔の前で手を合わせる。

「こ、今月ちょーっち厳しいのよね。来月まで待ってくれる?」
「………来月になったら買えるの?」
「そうね。贅沢は出来ないけど、小さいのなら買えると思うわ」

それを聞いて、「小さいの、」とアスカは何かを考えるように呟いた。

「……じゃあ来月でもいいわ。絶対、約束だからね!!」




ーーと。
結局来月小さなソファーを買うという事で話が纏まったのだと思っていたら。
学校に向かう道すがら、アスカはまたもや驚くべき事を言い始めた。

「今日から節約するわよ」
「……は?」
「だから、節約!ミサトから貰ってる生活費と食材費節約すんの!」
「いや、だから何で?」
「決まってんじゃない。浮いたお金をプラスして大きいソファー買うからよ!」

自信満々に彼女は言う。小さなソファーで満足したのかと思いきや、全然諦めていなかったらしい。
その熱意がどこから来るのかまるで分からなかったカヲルはぽかんとして、「大きくなきゃダメなの?」と聞いたのだが。

「ダメ。全っ然ダメ。大きくなきゃ意味ないわ」

意味ってなんだろう、と疑問に思って更に質問する前に、「だから買い物行くときは絶対私もつれてくのよ!一人で行ったら怒るからね!」ときっぱり言われてしまった。どうやら彼女の中では既に節約生活は決定事項らしい。
いまいち理解出来ないながらも「まあ大は小を兼ねるって言うし」と何とか納得する事にして、曖昧に頷く。正直、大して真剣に考えていなかったのだ。
どうせ買うなら高い肉、野菜だってどちらかと言えば高級品を選ぶ。そんな彼女が節約なんて、すぐに投げ出すだろう。
そう思っていた。

しかし。
アスカは本当にやってのけた。シンジやヒカリに少しでも安く買えるスーパーを聞き、タイムセールを狙い、少しばかり遠くたってめげずに走った。ジュースもお菓子も我慢した。そんな彼女にカヲルも巻き込まれた訳であるにしても。
やがて少女の健気な努力に保護者も気付き、つられるようにしてミサトまでもがビールの本数を減らすようになったのである。

節約に節約を重ね、慌ただしく過ぎた一ヶ月。
ミサトの給料日の次の日には、予定よりも少しだけ大きなソファーが葛城家のリビングに設置された。
それは決して特別豪華だったりはしなかったが、大きさだけは十分で。

そんなソファーを見て、アスカは心底満足気に笑っていたのだ。



そうした努力をして手にいれたからか、彼女はそのソファーを大層気に入ったように見えた。夕食後にはすぐ部屋に戻る事も少なくなかったのに、最近では入浴を済ませた後もリビングでテレビを見ていたり、部屋から持ってきたであろう雑誌を読んでいたり。時にはビールを飲むミサトの話し相手をする事だってあった。
アスカの定位置はいつだってソファーの左端。寝転がりたいと言っていた割りに彼女がそれを独占する事はなく、いつも右側は空いていて。そこにはミサトが座る事もあったし、カヲルが座る事もあった。

考えてみれば、このソファーはこの家に住む者全員が協力して手に入れた初めてのものだった。誰か一人が奮闘して手にしたものではない。努力の結晶としてこの部屋に存在するソファーは全員を平等に受け入れ、全員の憩いの場となったのだ。
ヒトとヒトが隣にいれば自然と言葉が産まれる。そうやって、ただの他人の寄せ集めでしかなかったこの部屋は、少しずつ会話で満たされていった。
いつしかカヲルもまた、家に帰ってくると自分の部屋に向かわずに当然のようにソファーに腰を下ろすようになっている自身に気付く。アスカがそうだったように、いつの間にかカヲルもリビングで過ごす時間が増えていた。学校から帰ってきた後、休みの日の午後、入浴の順番を待っている時間。そのソファーはいつも当たり前のようにカヲルを受け止める。
まるで最初からそうなると決まっていたかのように。


***


その日は、休日だというのに珍しくカヲルもアスカも自宅に揃っていた。
ネルフでの訓練や友人との約束もなく、ぼんやりと過ごすだけの日曜日。昼近くなってから起き出してきたカヲルが朝食兼昼食を取っていた時、同じく存分に睡眠を貪っていたらしいアスカも目を擦りながら自室から顔を出したのだった。
いつもの休日ならばどちらか一方、或いは両方が外に出ていて顔を合わせるのは大体夜だったものだから互いに相手が家にいる事に少しばかり驚いて、「珍しいね」とカヲルが言えばアスカも「あんたもでしょ」と欠伸をしながら答える。

「この匂い……それってもしかしてフレンチトースト?」
「そうだけど」
「私のぶん」
「……作れって?」
「そう。作って」

起き抜けで今一意識がはっきりしていないらしいアスカからの催促にカヲルはどうしようかな、と一瞬考えた。基本的に日曜日の料理当番は決まっていない。起きてくる時間も外出して帰ってくる時間もバラバラなので、各自で済ませる事になっているのだ。つまり彼女の言うことを聞いてやる義理はないのだが。

「……いいよ。代わりに洗い物君がやってくれるなら」

と、食事を提供する代わりに後片付けをして貰う事にして椅子から立ち上がる。「作れ」とでも言われようものなら是が非でも「断る」と返していた所だが、アスカの台詞が命令系でなくお願い口調だったので聞いてやる気になった。当然対価はきっちり要求しつつも。
まだ覚醒しきっていないらしい少女はその交換条件を「うん」という一言であっさり飲む。アスカが。あのアスカが「うん」。
これはまだ20%くらいしか起きてないな、とカヲルは肩を竦めた。一緒に暮らすようになってから知った事だが、先程の返事や「作って」という台詞からもわかるように、寝ぼけている彼女はやけに素直で子供っぽいのである。いつもこのくらい大人しければ扱いが楽なのに、と何度思った事か。

しかし問題もある。
この状態の彼女と幾ら話をしても、意識が完全に覚醒すると寝惚けていた時の記憶が曖昧になってしまうのだ。酷いと曖昧どころか会話をした事すら綺麗さっぱり忘れている事も多々ある訳で。
なので重要な話は寝起きのアスカにしてはならない。何らかのこちらに有利な約束をした所で本当にすっかり忘れてらっしゃるので「はぁ!?そんな事言ってないわよ!」と一蹴されてしまう事も屡々。一番話が通じる状態なのにある意味で一番厄介な状態でもあると言えよう。

「…なんていうか、君って色々とややこしいよね」

そんな呟きもぽやぽやとした寝惚け眼のままテーブルに頬を乗せている少女には届いていない。けれど、こんなに寝起きが悪いくせに自分が朝食当番の時はきっちり役目を果たしているのだからそこは評価すべきなのだろう。それが誰にも弱味を見せるものか、という意地と対抗心から来るものだとしても。

負けず嫌いでプライドが高く、常人の数倍の根性の持ち主。
それが今のカヲルが知っているアスカの全てだ。





やはりとでも言うべきか、食事を終え漸くしっかりと目覚めたアスカは洗い物をする約束をすっかり忘れていた。
「え?私そんな事言ったっけ?」と目をぱちくりさせて首を傾けた同居人にカヲルはわざとらしく深いため息を吐いたが、「作ったの僕。片付けるの君」と有無を言わせぬ力強さで言えば、彼女は渋々ながらも従った。アスカとて、自分の寝起きが悪い自覚はあるのだろう。寝惚けている時の記憶を飛ばしてしまう自覚も。
それにカヲルの言った事は正論でもある。意外にも公平性を尊重する彼女は、料理を作って貰った以上片付けくらいはするべきだろうと考え直したらしかった。
貸しも借りも作らないのが一番だと彼女はちゃんと知っている。そして何より、アスカにとっては食事を作るよりも片付けの方が数倍マシなのだろう。

「でもフレンチトーストだよ?料理って言える程のもんじゃないと思うんだけど」
「それでもイヤ。出来る限り自分では作りたくないの。そもそも料理とか向いてないんだって言ってんでしょ」
「そうかな。本人の好き嫌いはともかく、君のご飯不味くはないから向いてないって事もないんじゃない?」
「……あんたそれ、褒めてるつもり?」
「まあ、一応」
「だったら「不味くない」じゃなくて「美味しい」って言いなさいよ!そんな微妙な評価じゃ全くやる気起きないんだけど!?」

「本ッ当に失礼なヤツね!」と憤慨しながらガチャガチャと皿を洗うアスカの背中を横目にカヲルは難しいなあ、と考える。
自分としてはそう言ったつもりだったのだが、どうやら言葉選びを間違えたらしい。…それとも言葉が足りていないのか。

そもそもの話、カヲルの作る料理だってそう大したものではないし、アスカの作る料理は最初とは比べ物にならないくらい進歩している。正直言って、ネルフの食堂で食べる食事よりも彼女の作ったものの方がずっと好きだった。
そう思っていながらも確かに口に出して言った事は一度もなかったかもしれない。 

ーーけれど。

「僕が美味しいって言った所で君が料理作るの嫌いなのは変わんないだろ?」
「はぁ?それとこれとは別でしょ。誰が何と言おうと苦手なもんは苦手だし嫌いなもんは嫌いなのよ!」
「だよね」

ならば結局、告げる必要などないのだろう。
アスカだって不満気な事を言いはするが、実際の所はカヲルからの評価なんてどうだっていい筈だ。口にしたって何が変わる訳でもない。

…この時はまだ、本気でそう思っていたのだ。



***


食器を洗い終えてから部屋に戻っていた筈のアスカが再びリビングに顔を出したのは、時計の針が午後三時を差す頃だった。
のんびりとソファーに腰掛けていたカヲルは手元の雑誌から視線を上げ、億劫そうにからりと冷蔵庫を開けてジュースを取り出す少女を見る。「暇そうだね」と笑いながら声をかければ「あんたに言われたかないわよ」とアスカも呆れたように返した。
ジュースを片手に持った彼女が気だるそうな足取りでカヲルの隣に座ると、ソファーが少しだけ沈む。反対の手でテレビのリモコンを操作しながら彼女は酷くつまらなさそうに溢した。

「あーあ、退屈。何か面白い番組やってないかしら」
「そんな退屈なら遊びに行けば?」
「暇だけど外に出るのも怠いの!暑いし、服着替えなきゃいけないし、特に買いたい物もないし」
「まあ僕も似たようなもんだけどね。外に出たいとは思うけど準備するのが面倒臭いっていうか」
「正にそれよ。家の中にゲームセンターか何かがあればいいのに」
「あ、それいいね。本当にそうなったら家に籠りっきりになりそうな気がするけど」

そんな雑談を交わしながらもアスカはくるくるとチャンネルを回し、最後に映画を放送している番組で手を止める。カヲルは相変わらず雑誌を眺めていたので画面を見てはいなかったが、聞こえてくる音声が英語だったのでそれが外国の映画なのだと気付いた。
この国、特に中学生の間では余り使われない言語だ。久々に聞いた流暢な英語に懐かしさを覚える反面、眠くなりそうだな、とも思う。その言葉達にはもう随分と馴染みがない。ここに来るまでは自分だって当たり前に使っていたくせに、今では思考ですら日本語ばかり。
たった数ヶ月前の事が過去形なのだ。改めて過ぎて行く時間を実感する。ちらりと隣にいるアスカを盗み見て、彼女はどうなのだろうと考えた。自分と同じように、もうこの国に馴染んでしまっているのだろうか。
アスカと交わすのはいつもこの国の言葉だ。本当は彼女の母国語でも問題なく会話出来ただろうに、アスカもまた当然のように日本語で話す。考えてみれば不思議な話だったが、今まで疑問にすら思わなかった。
アスカの視線は大した興味もなさそうに、それでもテレビ画面を追っている。だからカヲルもまた雑誌へと視線を向けた。どうしても解消したい疑問だった訳ではなかったので、彼女の邪魔をするのは憚られたのだ。

会話はない。けれどそれは苦痛だとは感じなかった。
いつの間にか、同じ空間に誰かーーアスカが居ても、無駄に気を張る事がなくなっている。
多分、それこそが時間が経過している事の何よりも確かな証だった。






それから数十分が過ぎた頃だろうか。
ふと、肩に軽い衝撃と重みを感じた。

驚いて隣を見れば、目を閉じたアスカが自分の肩に凭れかかっている。
どうやら映画が退屈過ぎて眠ってしまったらしく、ことりと傾いた頭からは完全に力が抜けている。アスカの表情は起きている時よりも幼く、どこまでも無防備そのもので。
その寝顔に何かを感じる前に、カヲルはまず呆れてしまった。数時間前まで寝ていたくせにまだ寝るのかという事は勿論、意識がないとはいえ、誰に身体を預けているのかこの子は本当にわかっているのだろうか、と。

「……僕、使徒なんだけどな」

普通、敵の前で呑気に眠らないだろう。正体を隠しているならまだしもアスカは全て知っているというのに。一部ではあるがその能力も目の当たりにしたくせに。
その当人といえば使徒の眼前で堂々と眠り始めた挙げ句、あろう事か敵の肩に寄りかかっているのだからどうしようもない。「警戒心まるでないよね」と半分拗ねたようにぼやき、深いため息を吐く。

アスカはカヲルが怖くはないのだろうか。
確かにいい加減使徒は見慣れているかもしれないが、それは結局戦場での話だ。使徒と対峙するのはアスカ一人ではないし、何よりもエヴァに守られている。ヒトにとってはシェルターよりも強固な守りである以上そこには絶対的な安心感すらあるだろう。
けれど、今ここにいるのはアスカとカヲルだけ。身を守ってくれるエヴァはなく、何かが起きたとしても都合のいい助けなんて望めない事くらいは承知している筈だ。
敵同士が一対一でこの狭い空間に存在しているのだから、普通は気を抜けば殺される、通常ならば絶対に油断してはならない、と思うものではないか。

「……怖くないのかなぁ」

考えていた事を、わざわざ口に出して繰り返してみる。
カヲルにはアスカがどうして自分を警戒しないのか、怯えないのかがまるで理解出来ない。そういえば使徒である事を話しても、彼女は態度を変えたりはしなかった。前と同じく不遜で、横暴で、偉そうで。カヲルと距離を置こうとはしなかった。

それでもこんなにも気を抜いたりはしていなかったと思う。使徒どうこうを置いておくにしても彼女は他人との物理的な接触を嫌っていたし、同じパイロット相手ですら気を許してはいないように見えたのに、最も信用出来ない筈の自分に凭れかっても目覚めもしないなんて。
ここまで来るといっそ呆れを通り越して「何て肝の座った子だろう、流石選ばれしエヴァパイロット!」などと感心すべきなのかもしれない。舐められているのか試されているのか。カヲルはもう一度息を漏らす。

警戒心すら抱かれないのが複雑な一方、どこかむず痒いような不思議な気分になって、落ち着かなかった。もしかすると彼女が奇異の目を向けなかった事が少し嬉しかったのかもしれない。カヲルだって自分の境遇を幸福だとは思ってはいなかったし、当然理不尽な運命に不満はあったが、決して誰かに哀れまれたい訳ではなかったからだ。
全てを知ってからもアスカの態度は変わらなかった。その視線は同情も憐憫もなく、ただいつでもカヲルを真っ直ぐ射抜くだけ。

その瞳も、今は深く閉じられた瞼の裏に隠れている。いつも吊り上がり気味の眉も、自然な形に留まっていて。
そんな風に余りにも気持ち良さそうに眠っているものだから、「邪魔だからどいて」と起こす気にもなれず、大人しく肩を提供する事にした。実際本を読んでいるだけで他にする事もないから邪魔ではなかったし、重たかった訳でもない。だから自然に目が覚めるまで放っておいてあげようと思ったのだ。
他に理由なんてない。ーーなかった筈だ。







ゆっくりと、時計の秒針が時を刻んでいく。
つけっぱなしのテレビから流れる映画のエンディングロール。陽射しの零れるカーテン。柔らかなソファー。
ぺらりと雑誌をめくりながら、何て穏やかな時間なんだろうと過る。
使徒とリリン。本来絶対に相容れない筈の二者がこうして同じソファーに座り、時を過ごしている。
確かに今更ではあるが、改めてその奇妙さを認識した。流れる空気は笑ってしまうくらい平和で、困ってしまうくらい静かだ。それをカヲルはどう受け止めればいいのだろう?肩に乗せられた誰かの重みに、何を感じればいいのだろう。
それは、自分が知る必要のある事なのだろうか。



ーー不意に緩やかな風が吹き、アスカの髪がふわりと揺れた。
それを視界に捉えた事でそういえば窓を開けっぱなしだった、と思い当たって、なるべく身体を動かさないように注意しながらソファーの片隅に常備されている薄いタオルケットに手を伸ばす。幾ら気温が高いとはいえ日が落ちてくればそれなりに涼しいし、アスカは薄着のまま寝入っているのだ。流石に風邪を引く事はないだろうが、用心するに越した事はないだろう。
リリンは脆弱だからね、と呟いて。

ふと自分がこのソファーで眠ってしまった時、目覚めればいつもこのタオルケットが体を包んでいた事を思い出す。
今までは寝惚けながらも自分で引き寄せて被っていたのだろうと思い込み、深く考えた事がなかった。

けれど。
そもそもどうしていつもタオルケットがここに置いてあるのだろう。これは、誰が用意したものなのだろう?
誰が、何の為に。誰の為に?

決まっている。恐らく、誰かがこうやって寝てしまった時の為だ。
でもそれはおかしな話だった。だって、いつもこのソファーで寝入ってしまうのはカヲルなのだから。

ソファーが欲しいと言ったのはアスカだ。寝転がれるくらいの大きなソファーが欲しいと、彼女は確かにそう言った。
…言ったくせに。

カヲルは、アスカがこのソファーで横になっている所なんて一度も見た事がない。
いつも、いつも。ここで眠ってしまうのも、タオルケットを使うのも、彼女ではなくカヲルの方だった。

そんな事に今更気付き、どうして、と呆然としながらも頭に浮かんだのは一つの可能性。
彼女に限ってそんな筈がないと思いながらも、どうしてか完全に否定する事も出来なかった。タオルケットを掴んだ中途半端な体勢のまま、困惑しているらしい自分をなんとか落ち着かせようとする。何故こんなにも頭の中がごちゃごちゃになっているのか、カヲル自身にも理解出来なかった。

再び、悪戯に風が吹く。
タオルケットは当たり前に風に揺れて、アスカの腕に触れる。ん、と小さな声が上がり、彼女は微かに身動ぎした。
それでもまだ目は開かない。細やかな感触は意識を覚醒させる程のものではなかったらしい。

けれど代わりに、緩やかに唇が動いて。

そこから零れた言葉に、カヲルは今度こそ完璧に動揺した。

「………、…んん……、……カヲル……?」

ーー…そうやって誰かの気配を感じた時に。

最初に出てくるのが肉親の名前でもなく、友人の名前でもなく、他でもない自分の名前だという事に、胸の辺りが奇妙な温かさでざわついたのだ。

自分の近くにいるであろう相手を考えて、真っ先に彼女は自分を思い浮かべるのか、と。
そんなにいつも近くにいたんだろうか、と。

それから動揺した原因はもう一つ、彼女がカヲルの名前を口にしたからだろう。
普段は「あんた」だとか「こいつ」だとかばかりで全然呼ばないくせに、こういう時だけーー本当に気を抜いた時だけ、当たり前のように彼女はカヲルの名前を呼ぶ。
何だかそれを狡い、と思う。そんなのは卑怯だ。

「…………、」

今のアスカは無防備で、無警戒で、何の壁も溝も、距離すらも感じなくて。
だから聞いてしまった。相手の意識が曖昧だからか、不思議とカヲルまでとても素直な言葉が出た。

「…あのさ、このタオルケット、君の?」

うん、と僅かに遅れながらも返事が返る。寝惚けている時特有の、やけに幼い相槌だった。

「ここに置いたのも君?」
「…うん」
「……うたた寝してる僕にかけてくれたのも?」
「…うん、そう…」

ふわり、ふわりと。呟きのような明瞭とは言えない肯定の言葉。いつもの彼女らしくもない、夢うつつだからこその素直な返事。
だからきっとまた、起きたら忘れてしまうのだろう。
…後から思い返してみれば、多分それを理解した上で質問していたのだと思う。
相手が覚えていないだろうからこそ聞けたのだ。

だってカヲルには、その答えを面と向かって聞いたとしても、どんな顔をすればいいかなんてわからない。
わからないくせに、口は勝手に動いていた。

「……なんで大きいソファーじゃなきゃ駄目だったの?」

自分の声が僅かな緊張を伴っているように聞こえて我ながら驚く。緊張する必要なんてない筈なのに。
それは前にも尋ねた事だ。その時、自分が寝転がりたいからだとアスカは答えたのだから。

それでもカヲルは今、その質問を繰り返した。恐らくその時点で本当は、彼女の返答をわかっていたのだ。

一瞬の沈黙の後、ふふ、と、アスカが柔らかく笑う。
どこか幸せそうな、今までに一度も見たことのない、優しい顔だった。

「……だってあんた、床で寝ちゃうじゃない……」

だから、大きくないと、窮屈でしょ。

ーーそう言って。
それきり彼女はまた夢の世界へと戻っていく。

現実に残されたのは、その言葉を聞いて呆けたまま固まっているカヲルだけだ。
心の何処かで気付いていながら、それでも本人から直に聞いた真実は、どうしようもなく強烈だった。

つまり、最初から。
アスカがソファーを買いたいと言い出した時から、こうなる事は決まっていたのだ。居心地がいいのなんて至極当然だろう。
このソファーはいつでも、カヲルを受け入れる為に存在していたのだから。

今の今まで、そんな事にさえ気付かなかった。

ああ、本当に、なんて間抜け。

「………、…だからさ、」

ーーカヲルはアスカの事なんてわからないので。
ーー気が利く訳でも察しがいい訳でもないので。

「………言ってくんなきゃわかんないって」

零れた音は彼女への文句ではなく、自嘲のような、鈍い自分への呆れのような、情けない響きだった。

もしかすると。いつも何でもない顔をして見せながら、アスカはアスカなりに気にしていたのかもしれない。
毎回入浴の順番を待たせていること。
アスカを待つ間に床で眠ってしまうこと。
目覚めた時にあちこち身体が痛そうなこと。
それをカヲルが当然視していること。

どれもアスカが気にする事じゃないのに。
カヲル自身が良しとした事なのに。

何が本当かなんて、真実なんて、カヲルには判断がつかない。予想する事は出来ても正解かなんて知る方法はない。
だってきっと、いつものアスカなら絶対に答えないからだ。今までずっと言わずにいたように。

「ほんと君って、よくわかんないよ」

いつだって、言葉が足りな過ぎるのだ。
飽和するくらいに言葉を交わしておきながら、他愛ない雑談なら幾らでも出来るのに、肝心な事をいつも喉の奥に閉じ込めてしまっている。『言葉にする必要がないから』。

それは正にその通りなのだろう。ソファーに関してだってそうだ。アスカが本当の理由を偽ろうと偽るまいと、結果は変わらなかった筈だ。
どちらにしてもソファーは購入され、今と変わらない場所に置かれていたに違いない。

それでも、とカヲルは思う。
もし教えてくれていたなら、巻き込まれただなんて思わなかった。最初から理由を知っていたなら面倒臭がったりせず、積極的に協力していた。気遣いへの感謝だって言えていたかもしれない。

それに、ちゃんと言ってくれた方がーー

「……言ってくれた、方が、」

(……………………嬉しい?)

ーーそう、嬉しい、のだろう。

今朝の、アスカの言葉を思い出す。

『だったら「不味くない」じゃなくて「美味しい」ってーーー』

(……ああ、)

そうか。

言う必要がないからと、思っている事を口に出さなかったのは自分も同じだ。
あの時、美味しいなら美味しいと、伝えるべきだったのだ。

例え何も変わらなくとも、アスカが料理を作るのが嫌いなままだとしても、その一言を素直に告げていれば怒るのではなく少しくらいは笑ってくれたのかもしれない。
ちょっとくらいなら頑張ってもいいかと、そう思ったのかもしれない。

褒められたら誰だって嬉しい。気を使って貰ったら誰だって嬉しい。
そんな事すら知らなかった。…知らなかったのだ。



アスカは変わらず眠っている。カヲルに頭を預け肩に寄りかかりながら、穏やかな表情で。何の憂いもないと言わんばかりに。

きっと今カヲルは、隣に存在する事を受け入れ、許されている。カヲルはアスカの″内側″に居るのだ。
それが、彼女にとっての当たり前だというならば。

「…こういうのを家族の距離って言うのかなぁ」

カヲルには自分の胸にうずまく感情が何なのか、まだ上手く理解出来ない。自分の中で心なんて曖昧なものがしっかりと機能しているのかすらも。

自分は今どんな顔をしているだろう。
笑っているのか、困っているのか、迷っているのか、拗ねているのか。

何であれ、他人には見せられないような表情なのだろうけれど。



***


今日も、アスカとカヲルは向かい合って食事を共にしている。聞き慣れた生活音とテーブルに並ぶ料理。普段通りにいただきます、と手を合わせて、一口食べた後。
考えた末、結局知らないフリを通す事に決めたソファーの件を思い返す。
あの時感じた気持ちも、また。

ーーだから、いつも通りの光景の中で、初めての言葉を口にした。

「……あのさ。僕、君が作ってくれるご飯、嫌いじゃないよ」

そう言ってしまってから、あれ、とカヲルは思う。
どうしてかまた言葉が捻くれた。好きだよ、と言うつもりだったのに。
アスカに散々素直じゃないと言っておきながら、自分も大概素直じゃない事に初めて気付いた。ーー妙な話、彼女を相手にすると。
素直じゃないヒトの前では自分も素直じゃなくなってしまうらしい。さながら鏡のように。
ほらまた、ここに来てから初めて知る事ばかりだ。

アスカは面食らったようなびっくりした顔をして、規則正しく動いていた手を止める。そうしてすぐにちらちらと左右に視線をさ迷わせ、最終的には気まずそうに下を向いてしまった。やがて、明らかに困惑した口調でぽつりと問いかける。

「……な、なんなのよいきなり」
「特に理由はないんだけど。言わないとわかんないかなって」

他人だから。
この先どれだけ打ち解けても、アスカはアスカでカヲルはカヲルだから。口にしなければ伝わらない事だってある。いつか、言葉以外で互いの心を察せるようになるまでは。

そんな日が来るかは知らないが、カヲルは目の前にある道を歩いてみる事にした。
踏み出したのは自分の方で、行き着く先もわからない。どんな時だって最初の一歩はいつも困難だ。けれど想像していたよりは躊躇いを感じなかった。

「…私の料理が美味しいのは当然でしょ!私を誰だと思ってんの!!」
「え、なんで怒ってんの?」
「怒ってないわよ!これは、だから……、ああもういいっ!!さっさと食べれば!?」

怒鳴るようにそう言うとアスカは何故かやけくそのように料理を口に詰め込み始める。カヲルも言われた通りに食事を再開しつつも、今度は何を失敗したんだろうと首を捻った。多少ニュアンスは違うかも知れないが、本心を伝えたつもりなのに。

不思議に思いながらもアスカを見れば、眉は綺麗に吊り上がっている。頬は何だかやたらと赤い。
でも怒ってはいないのだと、彼女は言った。

ーーだとしたら。

(……なんだ、)

つい、うっかり笑ってしまいそうになる。気付いてしまったから。

今アスカは。

(照れてるのか)









負けず嫌いでプライドが高く、常人の数倍の根性の持ち主。
ーーそして、照れるとまるで怒っているような顔になってしまうらしい。

それが今のカヲルが知っているアスカの全てだ。
これから先増えていくかもしれない、同居人についての情報。


カヲルはアスカの事なんてわからないので。
気が利く訳でも察しがいい訳でもないので。

もう少しだけわかるようになるまで一緒にいてみようかな、と。

そんな風に思うのだ。






170716.



ーーーーーーーーーー

彼からの一歩。

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