挿話 Sanctus

□Raifojio
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『幸せな午後』


 王宮の一角には、許可された者だけが入れる転移の部屋がある。
 隔絶された王族の私邸に通じるのはそこだけで、許可証と転移の術に魔力を記憶させた者が揃わなければ入れない。

 魔界の王ガッシュと王兄ゼオンが住んでいる私邸はこぢんまりとしているが敷地はとても広い。それは小さな村一つが優におさまる程の広さで、小さな森や川もある。
 ガッシュは皆が遊びに来ると、敷地のあちらこちらへと出かけていく。探検なのか、冒険なのか、とにかく野原を駆け回るだけでも、木立の中を歩き回るだけでも楽しくて、いろんな遊びにつながっていく。そしてお腹が空いた頃には、空色の言伝の小鳥がやって来て、美味しい物をいっぱいに詰めた籠が置かれた木陰へ案内してくれる。

 それがゼオンの気遣いだと私邸を訪れる皆はもうわかっている。そうなるとガッシュと同様、ゼオンとも一緒に遊びたいのだけれど、一向にそれは叶わない。
「何かさあ、作戦ないか」
「ああ、ふつーに誘っても断られるもんね。うん、ちょっと考えよう」
 額を寄せ合う男子達から漏れ聞こえてくる企みに、目配せしあって女子達も加わった。

 初夏の気配を運ぶ風が、草むらの花を揺らしていた。
 幸せで、満ち足りて、だからこそ感じる不安は何だろう。こんな時にコルルが思うのは、置いてきてしまった心残り。
 寂しがりやのあの人は、それを埋めてくれる誰かと出会えただろうか。もう知りようもないけれど、願わずにはいられない。仮初めの慰めにもなれなかったコルルの事も、忘れるくらいの幸せを。
 花冠の優しい面影を思い描いて、見上げた空には眩しいお日様。その日差しにふと目を瞑ったら、くらりと頭の中が裏返って身体が傾いた。



「兄上、コルルを見ていてくれぬか」
「どうした」
「わからぬ。急に調子を崩したようで。とにかく休ませようと連れてきたのだが」
「……血の気が無いのと魔力に滞り、か。大事ではないな」
「では、頼むのだ」
 身体を横たえられたのは寝椅子だろうか。ぼんやりとしたまま頭越しの会話を聞いていると、遠ざかる気配を追って、つられたように魔力が動いた。

「っ!」
 突然、激しい痛みが全身を襲った。魔力が身体の外へ出ていこうとしている。苛々と暴れ出そうとする力は強くて、内に引き留めようとしても敵わない。
 息をするにも身体中の節々に痛みが走って、身動きもとれない。でも誰もいないところへ行かないと駄目。ここで意識を失ったら終わりだけど、もう持たない。
 ぎゅっと目を閉じたまま魔力を探ると、すぐ近くにゼオンがいて、外套に手が触れたのを思わず縋るように握った。
 苦しくて、辛くて、情けなくて、悲しくて、けれど最後に声を振り絞る。
「お願いゼオン、……誰も、いないところへ。……離れて」
 せめて誰も傷つけないように、それだけ願って意識は途切れた。



 瞬間移動した途端に、ゼオンが腕に抱えていたコルルの魔力が爆ぜた。
「ゼルク!」
 身構えた一瞬に、鋭い爪がゼオンを掠めて裂く。
 外套を広げ、空中で姿勢を整えたゼオンが粗い岩場に降り立つと、飛び出したコルルも腕と脚をたわめて難なく着地した。

 変貌したコルルがゆっくりと身を起こす。
 真っ直ぐに逆立った髪に、吊り上がったまなじり、指先から長く鋭く伸びた爪。第一の術「ゼルク」は切り裂く力。
 対峙したゼオンを本能的に警戒し敵と見なしたか、それは瞬時に岩を蹴って向かってくる。おそらくコルルの意識はない。

 我を忘れた術の力は荒々しいが、一足で間を詰め手首を掴めば、苦もなく押さえ込めるとゼオンは見切る。振りかざす爪に躊躇いなど微塵もなく、剥き出しの魔力は侮れないが、それだけだ。無謀で闇雲な攻撃は、一蹴されて仕舞いになる。



 ――気が付いて、最初に見えたのは傷の色。こちらへ向けられた綺麗な顔に、一筋の赤。

「ごめんなさい」
 口が動いたら、もう止まらなかった。
「ごめんなさい、傷つけて。ごめんなさい、我が侭で。ごめんなさい、嘘つきで。ごめんなさい、嫌なことさせて。ごめんなさい……」
 自分勝手な涙が次々に零れて、埒もあかない言葉が繰り返されて、壊れたみたいに歯止めがきかない。吸って吐いてしゃくりあげて、大きくはないけど、煩くて聞き苦しい声。

 優しいお姉ちゃんを傷つけた。嫌がるガッシュに本を燃やさせた。泣いて別れるのを嫌がってくれたのに、ずっと見てるなんて嘘までついた。そこまでして魔界に帰ったのは、戦いたくないから。傷つけたくない、争いたくない、私だけの我が侭。ただ逃げただけの大嘘吐き。
 好きになれないからって、親から貰った力を使いもしない。力が無ければ苛められても仕方ないのに皆に護られてる卑怯者。私がしてるのは、やさしいふりで、本当は何にもしていない。それはとても狡いこと。でも、何もしなければ悪い事も起きないから。傷つけたりもしないはずだから。
 なのにどうしてこんな事が起きるの。私は何か間違えたの。それとも何か足りなかったの。どうしたらよかったの。どうすればいいの、これから。

 黙ってそれを聞いていたゼオンが、ふいに身を屈めて腕を伸ばし、泣いているコルルを引き寄せ胸に抱えた。さっき頬骨を掠めた傷はとうに塞がっている。
 らしくない、有り得ない行動に動揺して声が止まると、ゼオンは一度腕に力を込めてから、コルルの顔を両手で挟み、自分の顔と向い合わせる。煌らかな瞳の他は、何も見えなくなるほど近く。

「黙っていた。いや、嘘をついたのか」
 深い紫に僅かな光を散らした虹彩がコルルを射竦めた。
「嘘は罪だ。傷も罪だ。では償いは。この俺に傷を付けたその罪を、償え」
 起伏のない声とは裏腹に、嘘と偽りに憤り軋む感情が瞳に覗く。
 瞬きもせず、瞳を大きく見開いたまま、唇を震わせたコルルは、何も言わずに頷いた。ゼオンが手を放すと、力が抜けたようにへたり込む。
 
 茫然自失の態のコルルから目を離さずに、ゼオンは銀色の言伝の小鳥を私邸へ飛ばした。何事もなく取り繕う為に。決して知らせない為に。
「ガッシュを傷つけるのは許さない」
 重ねて告げられ、コルルはまた、はらりと涙を落として目蓋を閉じた。



 真正面から見据えられたのは、初めて会った時と今。突き刺さるような眼差しが、恐ろしく怖かった。
 さっきまでの涙と違うものが頬を伝って目を閉じる。あの砕けた紫水晶を凝り固めた珠玉の瞳に、心が動かないわけがなかった。

 ……ずっと誰かにそう言って欲しかった。

 こんな喜びはきっと誰にもわからない。嬉しくて幸せで、胸が痛い。あふれて零れ落ちそうになる見えない何かを、切り裂いて、取り出して、確かめたい。それを腕を強く掴んで抱え込む。でも、伝えたい。届けたい。渡したい。ただ与えてくれたものに感謝を。
 
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