深淵の瞳

□第1章
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(ここは、どこだ?)

不意に沸き上がった疑問に少年の意識は急激に覚醒した。
どこもかしこも真っ暗な空間に立ちすくむ己が一体いつからこの状態にあるのか思い出すことができない。
足元まで暗く周りも何も見えないのに、自分の姿を見下ろせばなぜだかはっきりと見える。
普段着のズボンから覗く足は何も履いておらず、素足が踏みしめている地面はひやりとした石のような感触だ。
しん、と静まり返る空間が言いようのない不安を少年に与えていた。

(とりあえず歩こう)

不安から逃れるように、不安に背を押されるように、少年は歩き始めた。






とぼとぼと歩きながら何故こんなところにいるのだろうと、首をかしげてみる。
いくら考えてみても、少年の記憶はいつものように村で友人や弟と遊んでいたところから先がふっつりと途切れており何も思い出せない。
あてどなくひたすら足を進めていたが、ぶるりと震えた身体を自身の手でさすった。
冷え冷えとした地面は確実に少年の体温を奪っていたし、何より先ほどから周囲の気温も下がってきていて、薄い布で作られた衣服はもはや身体を保温する役割をはたしていなかった。

一度寒さを自覚してしまえば全身にその震えが回るのはあっという間だ。
なんとかして己の体温で暖をとろうとするが、身体の芯から起こる冷えには到底勝てない。
少なくとも最初にいた場所はこんなにも寒くなかったのだから、元いた場所に戻った方がいいのかもしれない。
寒さのあまり止まってしまっていた足を180度反対方向に向ける。そうすれば元の場所に戻れるはずだ。

(あ、足が…!?)

己の意志とは裏腹に足がピクリとも動いてくれない。まるで地に根を下ろしたかのように足は固まっている。
さらに都合の悪いことに、焦る少年を追い立てるように体はどんどん冷たくなっていく。

(寒い。こんな寒さ、耐えられない!)

ついに身を抱えるようにして地面に崩れ落ちる。
まるまり小さくなった少年から吐き出される口気は白く、全身の感覚がひどく鈍い。



そうして一体どれくらいの時間がたったのだろう。
ものすごく長い時間のような気はするが、実際のところは数分もたっていないのかもしれない。

じっとしているしかなす術のなかった少年背を、ふわりとした温かい風が包んだ。
それはあまりにも一瞬のことだったが、意識が朦朧としていても確かにその温もりを感じた。
すぐに今度はしっかりと身体が温風に包まれるのを感じる。

寒さで悴んでいた指先が温まりスムーズに動くようになるまで地面に伏せていた少年は、ようやくゆっくりと上体を起こした。
そろっと動かなくなっていた足に手を這わせてみる。恐々と動かしてみれば、問題なく動いてくれた足にほっと息をついた。
さっきまでの冷えが嘘のようにぽかぽかと温まっていく身体に、氷のように冷たかった肌もしっとりと汗ばみ始めた。
どうやらこの温風は背後の方からやってきているようで、後ろを振り向いてみると。どこまでも続いていたはずの闇にぽつんと一つの小さな灯りがともっている。
あちらに行くべきなのだろうか。
心細い今の状況にあの灯火はとても魅力的だ。
もしかすると誰かいるかもしれないし、このわけのわからない場所から脱出できるかもしれない。

ぐっと膝に力を入れて立ち上がってみる。よろけながらもしっかりと地面を踏みしめることができた。
あとはまっすぐ歩くだけ。
僅かな希望を胸に、再び少年は歩き始めた。

一歩、また一歩と踏み出すごとに生暖かい風が身体を温めてくれる。
しかしなかなか灯火に近づくことができない。
ゆらゆらと揺れる炎はいかにも頼りなさげだ。
急がないと消えてしまうかもしれない。そんな不安が過る。

走るべきか否か迷いつつ、足早に歩を進めていた少年は、ふと小さな違和感を抱く。

心地よかったはずの灯火からの風が、どんどん温度を上げているような気がするのだ。
いや、気のせいなどではない。確実に熱くなっている。

灯火との距離はいっかな近づいているようには見えないのに、吹いてくる風は温風を通り越して熱風といっても差し支えないほど急速に温度を上げる。

ぽたり、とこめかみから頬を伝った汗が地面に落ちた。

(熱い…)

これではまるで先ほどと全く逆だ。
このままでは先ほどの二の舞になる。そう直感した少年が迷うことなくその場から逃げ出そうとした瞬間、唐突に温度が急上昇した。
じりじりと燃えるような痛みに思わず小さな悲鳴を上げようとしたが、それすらも許されず開いた口から流れ込む熱気が喉を焼く。
熱に渇く瞳が写したのは煌々と燃え上がる鮮烈な紅。
それはもはや灯火などと呼べるような代物ではなく、火柱だ。
火柱が暗闇をかき消し、辺りを赤く染め上げる。
まるで意志を持つ生物のように蠢く紅蓮の炎は少年を獲物とでも定めたのだろうか。
圧倒的な紅の怪物は、一片の慈悲もなく少年に襲い掛かった。


声を上げる間もなく、小さな身体は飲み込まれ、そして消えた。





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