企画展示室
□お題募集企画セカンドシーズン
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「ねえ、ツェッド、この後付き合ってほしいところがあるの」
誘われてやってきたのは、大きな建物。
そこには、ヘルサレムズ・ロット中央水族館と金属の文字盤が打ってある。
人通りも、異界存在通りも多い。
老若男女問わず出入りするその建物。
以前、伯爵が読み聞かせてくれた本にあった、魚介類などを展示する施設。
それが、水族館。
「今年はね、特別展示でマナティが来てるのよ!」
うれしそうに話す彼女の姿に、そのマナティという存在がとても気になった。
そういえば、水族館に行く、となってから、勉強しといてね!と渡された水族館の最新パンフレットに、近日来館とか書いてあったような気がした。
そうか、彼女はソレが見たかったのだな、と思い自身も見られることが楽しみだった。
「そうでしたね。パンフレットには文章だけでしたが、実物はどういうものなのでしょう」
「ふっふっふっ、それは本物に会うまでお楽しみですよ! へへっ」
にこにこといつもより幾分か浮かれているのか、笑顔が多い彼女。
ゆれる肩までの髪が、ふわふわと跳ねて本当に楽しそうだ。
その姿を、今日は独り占めできるのだと思えば、すこし自分も浮かれているのだと今更ながら気づき、なんだか胸の辺りがくすぐったく感じた。
ステップをトトン、と踏むように受付に向う彼女は、突然けつまづいて転んだ。
「あ"ぅっ!」
本当に突然のことだったのと、距離が開いていたのも相まって阻止しようとした手もとどかなかった。
びたん、と勢いよく転んだのに、鈍い悲鳴を上げただけで、すぐに立ち上がり、服を払って受付にそそくさと向う様に、すこしほほえましく感じたのは、なぜだろうか。
ソレと同時に、届かなかった手が、一瞬、最近よく見る夢とダブって、身体が固まってしまった。
記憶という、暗闇へ落ちてゆく彼女を、僕はしらない。
それが本当に彼女なのか、それこそ、夢の見せる幻想なのか。
『テメーはいいよなァ。なんもしんねーから、気にすることねーもんなぁ』
兄弟子が言っていたことが、どういうことなのか、まだ計りかねてはいるけれど。
『みんな、どうして余所余所しいんだろう。』
一度だけ、つぶやいた彼女の言葉は、まだ記憶に新しい。
それが、どうしてだか哀しいと、さびしいと。
水槽越し、しかも相手は背を向けたまま座り込んでいたため、表情まではわからなかった。
もし―
もし、彼女があの時、泣いていたのならば、自分はどうしただろうかと。
そしてあの夢。
『 』
彼女は、誰の名を呼んだのだろう、と。
伸ばした手は、空を掴み、彼女は、暗闇に、消え―
「ツェッド! 大丈夫?」
は、と我に返れば、大きな声で下から呼んでいる声。
チケットを二枚手に収めた、小柄な女性が心配そうに自分を見上げていた。
一瞬、ぼうっとした感覚が脳内をよぎるが、それもすぐになくなる。
「…ツェッド?」
「え、ええ。大丈夫、です。すこし考え事を…」
なんとか搾り出した言葉で、彼女は、ほ、とした表情になり胸をなでおろした。
一瞬の呆けの瞬間みせた、彼女の視線が、どこか心配とは違う表情に見え、そこからの安心した顔に、息を吞んだ。
ぎゅう、と胸の辺りが締め付けられるようなこの感覚。
そういえば、彼女と初めて顔を合わせたときも、同じような感覚を味わった覚えがある。
人に話すには、どうも、不確かな感覚。
その答えは、まだ出すわけにはいかないようにも思えた。
「それじゃ、いこっか」
自然な流れで、彼女はこちらの手を軽く掬い、手のひらをあわせてきた。
いわゆる、手を繋いでいる状態である。
あまりに自然につながれたため、しばらく歩いていて気がつかないくらいだった。
「え、ちょ、シノブさんっっ!!」
「…。ほらー、はーやーくー」
一瞬立ち止まりかけた彼女だったが、自棄なのか、明るい声を上げて、この状態を続行することにしたらしい。
すこし薄暗い館内だったが、たまに優しく落ちている青い光の下、耳と頬が赤らんでいるのが目に入った。
そんな姿を見てしまえば、繋がれている手を離したくない、と思ってしまった。
だから、その小さな手のひらを、僕は優しく繋ぎ返した。
【暗闇のマーメイド】
(こんな気持ちは、はじめてだ)