百華撩乱

□脱出
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閉じた瞼は、開かないはずだった。
開けないはずだった。

瞼の裏の、真っ暗な、どこまでも続いているのかと思われる闇。
その闇に片足を踏み入れようとした。

このまま進めれば、もう苦しむこともない。
何もかも忘れる…

トクン―心臓が、小さく鼓動を打った。

生きたい、そう呟いたとしか思えなかった。

ためらってる自分がいる、そんなことは、とっくに気付いている。

ぎゅうっと下唇を噛み、目をきつく閉める。

そんなことを考えている自分がいることが腹立たしかった。

なのに、なのに生きたいという鼓動が、力強く脈打っている。

私も弱ったものだ。
細い手で溢れ出る感情を押さえ込もうとしても、指の間から溢れてくる。

鼓動は、どんどん力強く、一定のリズムを奏でていた。

やめて!そう叫んでも、か細い声は虚しく泡となって消えるだけだ。

そのとき、バランスが崩れ、どこから来たのかわからない、力強い流れに飲まれた。

それでも目をつぶり、耳を塞いだ。
短い髪が、顔にまとわりつき、生命の鼓動が速くなる。
確実に沈んでいくのが、自分でもよくわかった。

ぎゅっと身を縮め、流れに身を任せようとした、そのときだった。

「嫌だ」

今にも消えてしまいそうな、か細い声だった。
しかし、鈴の音のように澄み、はっきりと芯が通っている声だった。

どこかで聞いたことがある。

自分の声だと認識したとき、華は心底驚いた。

「生き…た…い…」

華の口から、泡となってこぼれる呟き、いや、叫びは、湖中に波紋が広がるように広がった。

目をしっかりと開け、前を見据えた。

漆黒の闇に、鮮やかな月光が、さぁっと広がった。

全身の震えが止まらない。

生きたい、そう思ったことなど一度もなかった。

縛られた手を、祈るように、ぎゅっと握った。

そのとたん、手首に冷たい何かが触れた。

死の影が迫ってきたことを感じ、思い切り振り払う。

怖いものなど何もなかった。
今の自分なら、死でさえも跳ね返せる。
そう思える程、華は輝いていた。

しかし、冷たい感触が消えるのと同時に、手首をしっかりと締めていた麻縄の、ごわごわと痛い感触も消えた。
足も自由になる。

「助けにきたよ。」

その声は、低く、優しい。
華の冷えきった心を、暖めてくれる声。

黒い湖に浮かぶ、光を放っているように白い、自分のものとは思えない手を、ぎゅっと握りしめた。

腰に手が回され、光の中へと進んでいった。

水面が近づき、ゆらゆらと揺れている月光が強くなる。

白装束が重く、まるで重りのように沈めようとする…

あともう少し…
息が苦しい。
まとわりつく髪が、もどかしかった。

そのときだった。

華の自由になった細い足に、冷たく、ねとねとした「それ」がからまりついた。

頭が真っ白になる。

助けてくれた人…涼も、異変に気付いたらしく、華の足下に回った。

ぐいっとかなり力強く、足が引かれる。

あっという間にバランスを崩し、大量の水が口の中に入る。

強い…水を蹴り、振り払おうとしても「それ」は、増々
力強く締め付けてくる。

もう駄目だ…そう思ったとき、足下で青い光が急に放たれた。

それと同時に、急に身体が軽くなった。

再度腰に手が回り、月光の網が、ゆらゆらと近づいてくる。

まとわりついていた髪の動きが止まった。
夜風が、ふたりの頬を撫ぜる。

胸一杯に、新鮮な空気が流れ込む。

危なかったね、そう言おうとして涼を振り向いた途端、さっと抱きかかえられ、黒い毛並みが月光に照らされている馬に、押し上げられた。

「しっかり掴まってて」

そう囁き、涼は、華の前に飛び乗った。

少し躊躇しながらも、しっかりと涼の背中に掴まった。

ヒヒィンと馬がいなないたと同時に、辺りの音が華の耳に戻った。

馬の蹄が、強く地面を蹴る音が闇に響く…

耳を疑った。
同時に、別の音も聞こえたからだ。

蹄が地面を蹴る音が、二重になって聞こえた。

それと、ゴボッゴボッという、泥水が動き回っているような醜い音も聞こえる。

思わず後ろを振り向こうとした…

「華!」

涼の、凛とした声で現実に引き戻された。

「振り向くな!」

強い語調のその声は、華を前に向かせるのには十分だった。

辺りが一気に暗くなる。
森に入ったのだ。
月光が、微かに葉の間からこぼれているが、視界が効きにくい。

ひゅんっと耳元で音がした。
それと同時に、目の前の木に矢が刺さり、唸っていた。

自分たちの馬より、少し軽い蹄の音が近づき、華たちと並んだ。

キリキリと弦を絞る、不吉な音が隣で聞こえる。

涼は眉毛一つ動かさず、左手で手綱を握りながら、腰紐に吊るされている鞘から、右手で青輝の剣を抜いた。

自分から発している光なのか、月光に照らされているのかわからないが、闇に青白い光がよく映える。

弓を引く手が少し怯んだことを、華は敏感に感じ取った。

もちろん涼も気付き、馬の腹を強く蹴り、速さを上げた。

涼は巧みに馬を操り、相手との距離を確実に引き離していった。

悪あがきをするかのように、何本か矢が耳をかすめる。

蹄が地面を打つ、軽快な音は、一つしか聞こえなくなった。

もうこれで安心だ…そう胸を撫で下ろしたときだった。

ごぼっ…夜の森のひたすら静かな闇に、一つの音が響いた。
余韻を少し残し、森に吸い込まれるかのように、その音は消えた。

ごぼごぼっ…

今度は、もっとはっきりとした音だった。

しかも、すぐ後ろから聞こえる。

言い訳をするつもりはないが、好奇心、というよりは恐怖だった。
いや、好奇心かもしれない…

結果として、振り向いてしまったのだ。

振り向いた瞬間、反射的に顔が強ばった。

華の大きく見開いた目の先には、茶色く濁った泥水のようなものが、泥を散らしながら、かなりの速さで襲ってきていたからである。

泥の中に、らんらんと赤く輝く球体が六つ、ところどころについていた。

その球体は、あちこち忙しそうに動いていた。
頭と思われる場所のてっぺんにいたかと思えば、泥を散らしている、足のあたりにいたりした。

それが六つも、せわしなく動き回っていた。

早く顔を戻そうとするが、動かない。

そして、それを思わず目で追ったのがいけなかった。

その数秒の油断で、赤い小さな球体が、恐怖におののいた一対の黒い瞳を捉えた。

泥は、華の目目がけて、まっしぐらに、地面に泥の尾を引きながら迫ってきた。

泥が鼻先にくっつきそうなくらいまで、近くにいた。

もう駄目だ。

そう観念し、目を固く瞑った。

いきなり、どんっという鈍い痛みが、全身に広がった。

おそるおそる目を開ける。

真っ白だった。
どくん、どくんという少し速いが、安定した鼓動が聞こえる。

ほのかに、庭の花のあの香りが漂い、なぜか温かい。

混乱しつつ、緊張が切れ、疲れが一気に押し寄せた。

いつの間にか、華は安心して眠ってしまった。

そこが、馬から落ちた華を庇った、涼の腕の中だとは知らずに…

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