短編
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潮のにおいとは、こうもむせるほどのものか。呼吸するたびに、胸の奥に独特の湿気を感じる。
エマヌエルは王子に出かけないかと誘われ、てっきり前のように城下かと思いきや、まさか海に来るとは。
温暖な気候かつ大きな嵐もない海浜は、波が穏やかで水の濁りもない。そのぶん海産物の恵みもないため、この辺りはサイーラ領との交易が主に行われている。
「殿、下、あの、こちらで何か……」
「何も、遊びに来ただけだが」
「遊びに……」
おずおずとルートヴィヒの顔を見ても、相変わらず表情に変化はない。嘘をついても意味はないのだから、本気で遊びに来たと言っているのだこの王子は。
「戴冠をすれば、身軽にどこそこへは行けない。貴君もそうだ、これが最後の機会になるやもしれん」
「私は、貴方様の、お側であらば」
ルートヴィヒは忠義を示す青年の手をひいて歩く。浜の砂は砂漠よりも荒く、さくさくと音を鳴らす。日差しも熱風も生命を脅かすような強さはない、ただ穏やかで、静かだ。
波打ち際までたどり着くと、急にエマヌエルの体が硬くなる。砂漠の民にとって、大量の水は警戒すべきものだ。わずかな降雨でも洪水につながる荒野では、溺死こそ最も危険視される。
「なにも恐れることはない」
「は、い」
水の冷たさにおっかなびっくりしながらも、足先を浸していく。
うち返しては引く波に、不思議と体が引っ張られる感覚に陥り、エマヌエルは両手で王子の手を掴んだ。
「あ、すみ、ません、その」
ルートヴィヒは青年の細腰を引いて、抱き寄せる。たしかに恐怖は紛れたが、恥ずかしさのあまり、エマヌエルはうつむいた。
沖へ誘うようなさざ波と、暖かな風にようやく気づいた。王子だけが唯一、エマヌエルをひとりの人間として扱っている。
ルートヴィヒがいまだかつて、魔王としての力を欲したことがあったろうか。
自身に心酔する青年を煽れば、北方など容易に滅ぼせる。それはせず、ただ婚約者を愛するがゆえの行動で尽くしている。
「殿下……」
「美しいな」
陽光に反射してきらめく銀の髪を指先に絡め、ルートヴィヒは呟いた。
エマヌエルとて、相手が王子だからとか、偉大な預言者の子だからとかの理由で慕っているわけではないのだ。誠実さと優しさ、ルートヴィヒのもつ真摯な心に惹かれてこそ。
何もかもに絶望しても、身を火に焼かれる思いをしても、エマヌエルは世界が美しいと信じることができるのだ。