短編
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気だるけに煙を吐きながら、禍令は思った。
「近ごろ、気分が優れないご様子ですねえ、魔王様」
なんとなくで聞いたことが、正解であったようだ。水煙草の吸口を咥え、深く吸い込む。
床に転がってだらだらしているわりに、かの魔女は人の心の機微に聡い。
エマヌエルは読んでいた本から目を離す。聖者の遺骸を復元するために様々な医学書を読んではいるが、全く集中できない。
「その……叔母様のことを、考えてしまって……」
「ほう」
また大量の煙が上がる。禍令の眼はうつろだが、続きを促された。
「叔母様は、私を保護していたがために、一族からはあまりよい扱いをされていないようでした。年を召しても、結婚すらさせてもらえず。叔母様のことを思うと、私なんかが……」
「不幸なまま死んだ叔母を忘れて、自分が結婚して幸せになってよいのかと、そうお考えなのですねえ。なるほどそんなお年頃ですか」
「ベリオールの戒律では、死した者を忘れなくては、いけないのに……私は叔母様を忘れる決心が、未だにつきません」
叔母からお下がりされた衣服は、捨てられずにいた。彼女から習った旋律も、毎日のように奏で練習している。よくできたと褒めてくれる声すら、もうないというに。
「わたくしたちはもう、人並みの幸せなど望めないのですから、せめて自分なりの幸福を追ってはいかがでしょう」
「自分、なりの……」
「貴方を愛そうと努め、育てたその方が、ただ不幸だと決めつけるのはあまりに勝手では?
わたくしは他人から見れば愚かでしょうが、わたくしはとっても良い生活を送っておりますよぅ」
「そ、うですね……叔母様の人生は、叔母様のもの……私は叔母様がいてくれたから、こうして字も読めるのに」
他人の人生の幸不幸やその結果の可否を、おいそれと自分勝手なものさしで測ってはならないのだ。
もし叔母がエマヌエルを捨てようと思えば、それは簡単な事。彼女は過酷な生を受け入れ、姉の形見を守りきった。
「ありがとうございます、禍令様。自分の中で得心がいきました」
「ふふ、いいんですよう。こんなことで魔王様にいただいた恩をかえし、かえしかえ、うふふうううふふふ、ふふふふ」
「えっ」
「ふふうふふ、ふああはははは、すみ、すみませええんんん、ちょっと、さがるおくすりくすり、きれちゃってえっへへへへ」
「えっえっ」
床をのたうち回る魔女の哄笑は止まず、口の端から涎や吐き下した胃液を流している。
事態はどんどん悪化し、尿まで漏らす始末。倒れた水煙草からは強い酒の匂いがした。
「っ、葦弥騨の方は酒は……いや、禍令様も……だめそうですね」
葦弥騨の酒に対する過敏反応は強く、激しい嘔吐や痙攣はよく見られる。それも混血が進み、最近は珍しいものだが。
「よ、よくわかりました……まともなときの禍令様は、まともでないものを摂取しているのですね」
まずは水を与えねばと、エマヌエルは本を閉じ立ち上がる。