短編
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夕方にさしかかった頃、キサラは寒くならぬうちに身を清めようと、小さな池で水浴びをしていた。
特に今日は泥にひっかかってしまった。松やにの石鹸で汚れを落としていく。
「天狗も洗おうかなー」
『俺はいい』
「えー、お爺ちゃんはたまに洗うのに」
『ウッコのそれは戯れだ。俺には必要無い』
天狗はキサラを抱え、背中や頭を洗ってやる。葦弥騨は潔癖な民だ。キサラもその例にもれず、清潔であることを好む。
「……ん?どうしたの」
つと、狼らがキサラの方に来た。この森の狼は、天狗を頂点に据えて群れている。
困ったようにくんくん鳴き、天狗を取り囲む。
「あ、もしかしてあれ?」
狼の背後には、家畜であろう黒豚が十頭ほどいた。森の近くの村で飼われているものだ。
豚は昼に放して、森のどんぐりなどを食わせる飼い方をする。つまり迷ってしまったのだろう。
とても人慣れしており、キサラが触っても嫌がらない。
「うんうん、食べちゃだめだよ。面倒くさいし、家畜の味は覚えないでね」
まだ髪も乾かぬうちに、キサラは服を着た。
若い豚は好奇心旺盛だったか、どこかへ行ってしまった。村人総出で探していたが、やはり森の奥に入ってしまったか。そうなれば狼や熊に食われたと、諦める他ない。
つと、特徴的な豚の鳴き声が聞こえてきた。村人がそちらを見ると、同時に狼の荒い息も耳に入る。
「うっ……まさか」
「やっぱり、ノルンク村の家畜だった」
運の悪いことに、豚を追い立てたのは森の魔女だった。
魔女は蒼い火を内包する鬼灯(ほおずき)の実を灯火に、宵闇の森から現れた。
「食べてないから大丈夫。ほら、お行き」
魔女が鬼灯の枝を振ると、豚らは言葉がわかるのか、素直に村人の下へ歩く。
「だめだよーちゃんと見てなくちゃ」
「す、すみません……」
「まあ、今年はどんぐり少ないものね。熊もちょっと気が立ってるみたい。場所変えてみて」
「は、はいっ、ありがとう、ございます」
森の魔女は、礼節を守ってさえいれば助言をくれる。だが欲深い狩人や、森を荒らす者には容赦しない。
森に恩恵を受けるならば、かの魔女を怒らせてはいけないのだ。
「よし、帰るよー」
意のままに獣を操る魔女を、村人らは畏怖する。
だがキサラ本人は、天狗やウッコといった森の守護神から、動物や人への仲介をしているだけだ。ただの調整役であり、キサラの意思など無い。
「くしゅっ……うー」
『だから、乾かしてから行けと言ったろう』
「いいもの、天狗に暖めてもらうから」