純情エゴイスト〜のわヒロ編7〜

□笑顔の秘密
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濡れた髪をゴシゴシと拭きながら洗面台の鏡の前に立った。

目は赤く充血し、頬の筋肉もこわばっている。シャワーを浴びれば少しはスッキリするかと思ったのに全然ダメだ。

「疲れた…」

無意識に声が洩れる。

一週間ぶりの帰宅。ヒロさんの寝顔を見ようと部屋に行ったら隙間から灯りが洩れていた。

耳を澄ますとパタン…と硬い表紙が机にあたったような音が聞こえた。調べものでもしているのだろう。

いつもなら扉を開けて元気に『ただいま』の挨拶をするところだけど、ドアノブに触りかけた手を引っ込めて静かに風呂場に向かった。

ヒロさんにこんな顔は見せられない。笑顔でいないとヒロさんにまで心配をかけてしまう。

鏡を見ながら無理やり口元を引き上げてみたけど、目は暗く淀み頬も引きつったままで、不自然を通り越して滑稽に見える。笑顔ってどうやるんだっけ…

明日の午後、爽太君が退院する。爽太君は俺が小児救急に配属されて間もない頃から担当している患者さんだ。

元気になって退院するなら嬉しいけど、爽太君の場合は違う。現在の技術ではもう手の施しようがなくて、残された時間を家族と一緒に過ごすために退院するのだ。

退院は爽太君のご家族の希望でもあり、お母さんからは感謝の言葉までもらった。助けることができなかった無力な俺に『ありがとうございました』って…

退院を決定した上司からも仕方のないことだと言われ、津森先輩も『お前の所為じゃない』と言ってくれたけど…無力な自分が情けなくて、悔しくてたまらない。

研修医の俺が一人で頑張ってみたところで日本の医療技術が飛躍的に向上するなんてことはありえないし、俺なら助けることができるはずだなんて過信しているわけでもないけれど、それでも悔しいものは悔しい。

助けられない患者さんに出会うたびに感傷的になっているようじゃ医者は務まらないのに、俺はまだまだ未熟で…先輩医師や看護師さんが気を遣って慰めの言葉をかけてくれるたびに情けなくてたまらなくなる。

明日は笑顔で爽太君を送り出してあげられるように、一旦帰宅して頭を冷やそうと思ったけど…作り慣れているはずの笑顔ができない。俺、また笑えるようになるのかなぁ…

鏡に映った自分の顔を見ていたら自信がなくなってしまった。まるで大昔の自分に戻ってしまったようだ。幼い日の自分に…




まだ園長先生夫妻の本当の子供だと思っていた頃の俺は表情が乏しい子供だったと思う。他の子供達より年上なんだし、俺には両親がちゃんといるのだからと、色々なことを我慢していた。

我慢といっても、元々温厚な性格で執着や拘りはない子供だったからそんなに苦労したわけじゃないのだけれど、人生悟ってしまったような諦めに似た気持ちもあったと思う。

笑うことも怒ることも泣くこともなく、同じような日常をただ生きていた。

そんな俺が初めて心から嬉しいと思ったのが、家出事件で飴を買って貰った時だ。

自分が捨て子だと知って家出をした俺を先生達は必死になって探してくれて、交番に保護されたところに迎えに来た時は頭を叩かれて…抱きしめられた。

その帰りに飴を買ってくれて…ちょっと前に、貰い物の飴が人数分足りなくて俺が我慢したのをお義母さんが覚えていてくれたことがとっても嬉しかったんだ。

園長先生もお義母さんも、俺のことを…大勢の子供達一人一人をちゃんと見てくれているんだと初めて知った。

その後、俺は先生達のことを以前よりももっとしっかり見るようになった。俺のことを見ていてくれるのと同じように俺もって、子供ながらに思ったんだ。

そうしているうちに気づいた。先生達は怒るととっても怖いけど、それは一時だけで、いつでも子供達を笑顔で見守ってくれている。

先生が笑顔だと、みんな安心して幸せな気持ちになれるんだ。泣いていた子も、怒られて不貞腐れていた子も笑顔になれる。

そんな時、学校でこんな諺を習った。『笑う門には福来る』昔の人も言っているのだから間違いない。

笑顔でいれば自分も周りの人達も幸せになれる。俺も先生達のようになりたい!

そう思って、俺は笑顔を振りまいてみた。優しく笑いかけると、小さい子達が可愛い笑顔を向けてくれる。

怖いおじさんとも、気難しそうなお婆さんとも、人懐っこい笑顔で接すれば友達になれる。

そのうちに笑顔が板についてきて、自然に笑えるようになった。

一人でいる時は落ち込んだり、悔しかったり、イライラしてしまうこともあったけど、人と接する時は笑顔になれた。

だけど、それは飴を買って貰った時の笑顔とは何かが違っていた。偽りの笑顔…ではないけど、心の底から嬉しくて笑っているわけでは無かったんだ。
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