物語

□想起するは
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近所中が、ついに徳川慶喜公が政権を返上したらしいと騒いでいた。

これは、のちに、“大政奉還”と呼ばれ日本史に深く刻まれることとなる出来事である。

三百年にも及ぶ徳川幕府の失脚ともなれば、その生活は幕府関係者だけではなく、一介の町民ですら無視出来ない変化を感じることになるだろう。

ここにも、そんな心配事を抱える女が、一人。



「京の街も、これからどんどん賑わっていくのでしょうね……」



出来れば気に入っていたこの地を離れたくはなかったのだけれど、と、女はそっと自身の腹を撫でた。

何が、いつ、どのように変化していくのか。

大政奉還だなんて事例、今までに例があった試しがないので、女には想像すらつかない。

もしかしたら、これからも戦が絶えない日々が続くのではないか。

明日をも生きていられるのかを心配する日々が、まるで出口のない穴蔵を駆けていくかの如く、続くのではないか。

政権がお上に移ったことで、京の街はより一層物騒になり、女である自分には居場所なんてないのではないだろうか。

と、こういった不安要素を、考え羅列し始めてしまえばキリがなかった。

この間も女は、帯の上から腹を撫でる手を、休めることをしない。

腹を撫でる仕草というのは、もうこの女の癖のようなものだったからである。

ちょっとした不安や、言い知れぬ感覚に襲われた際は、つい、こうやって手が腹に伸びてしまうのだ。



「あ……」



女は、そんな微かな声を漏らしつつ、手元に目をやった。

そこには、どう考えたって自然に解けることはない着物の帯が、見事に緩み切って今にも落ちそうな光景があった。

咄嗟に抑えたから良いものの、この動作が少しでも遅れれば、途端に醜態を晒すことになっていたことだろう。

もっとも、ここは、女がひっそりと暮らす家屋の中である。

しかも今は一人きりであったので、帯が落ちたところで、女にはさして羞恥心はなかったのだが。

女は、これを、どうせ今から湯浴みの予定だったのだから丁度良いだろう、と、楽観的に捉えた。

楽観的すぎる。

もしこの場に誰か他の第三者がいたのならば、ほぼ確実にこう言っただろう。

例えば、女が日頃親しくしている友人らや、近所の町民たちだ。

彼らであれば、きっと、帯が勝手に落ちるだなんて何事だと、声を荒げて騒いだに違いない。

だがしかし、女は違った。

もう、日常茶飯事であったのだ。

就寝時に何者かの気配を感じるところから始まり、物が勝手に落ちたり物音を立てたり、己の意思に反して身体が勝手に動いてしまったり。

こんな、いわゆる奇怪現象と言わざるを得ない事象を、女は今までにもう幾度となく経験してきていた。

今だって、ほら、触れてもいない着物がするすると落ちていく。

まるで見えぬ“何か”が、女の肌を撫でるようにして、落ちる着物はゆっくりと女の肌を露わにしていった。



「……っん、また、なの……?」



もう嫌だ、と、女がじわり涙を浮かべたところで、“何か”の動きは止まってはくれない。

一度、神社仏閣その他、こういったことに詳しい者に助言を求めてみれば良いのかもしれない。

けれど、女にはそのための金が無かった。

なので、放って置いているというよりも、出来ることなら遠の昔にそうしているというのが、事に対する女の姿勢だった。

どうにかしたいと思ったところで、出来ないというのが現実なのだ。

日常の中で起きるこれらの現象は、その大半が恐怖には繋がるものの、実害はなかった。

しかし、ある程度の規則性を持っているそれらの中で、一つだけ、女にはどうしても受け入れることが出来ないものがあった。

この時、ちゃぷん、なんて水音が伴ったのは、女が五右衛門風呂の中で僅かに身じろいだからだった。



「っ、や……!」



女が、唯一いつまでも慣れることが出来なかったのは、これである。

見えぬ何かが、女の身体を縦横無尽に這っていくのだ。

首筋、肩、乳房に内腿。

この世のどんな物体とも違うその感触は、抵抗してみたところで空を掴むだけであるので、女に強い快感をもたらしていた。

時には今のように湯浴みの最中、またある時には、就寝後に襲ってくる。

容赦なしに女の悦いところだけを突いてくるそれに、女はひたすらその都度ただただ必死に耐えていた。

湯船の中でも御構い無しに、強くも弱くもない刺激を、絶えず感じた。

乳房の突起は既につんと立ち上がってしまっていたし、押し広げられた花弁の中にも、同様に硬度をもった蕾が存在感を示している。

女は、より強い刺激を求めるようにして痙攣を起こす入り口が、己の身体ながら憎かった。



「……はぁ……!ん、あ……!」




その時の女の胸中を表すのに、恐怖なんて感情で片付けてしまうのでは、少しばかり語弊があるだろう。

もはや、生活全てが“支配”されているようであった。

逃げ場など、どこにもない。

何も効果は得られないと理解しつつ、逃げる動作を繰り返してみたり、見えぬ何かに反抗の言葉を紡いでみたりと、そんな事をしてみたこともあった。

けれども、そんなことをしてみたところで、奇怪現象は怒り狂ったかのように暴走してしまっただけだった。

この“何か”には、意思がある。

それを悟ったのは、確かその頃だったと女は記憶していた。

そして、恐らくはその“何か”の意思に反する行動を、女がとってしまっただろういつぞやの時には、今のような行為を日中街中で起こされたことがある。

その一件以来、女は、例えどんな奇怪現象であっても一切の抵抗はしまいと決めたのだった。



「……も、許し、……御許しくださいま、……許……っ」



女の下腹部にある蜜壺、さらにはその再奥に緩急ある刺激が伝わった。

それと同時には、どんな箇所よりも敏感な蕾を吸引するかのような力が加わって、女の頬にはもうどんな意味が込められたかすらわからない涙が伝った。

達してしまわない、わけがない。

女は、腹に手を当てる動作をしながら、思う。

もし、自分が与えられた寿命より早くこの世を去ることがあれば、きっとこの奇怪現象を起こしている“何者か”の仕業であるに違いない、と。

そして、そやつが、あの世という場所の住人であるのならば。

自分は死しても尚、解放されることはないのだと。
 
 
 
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