短編3

□Don't let me down…
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名無しさんは夢を見ていた。
大切な、ほんの少しの思い出。
天使という存在なのに、救われたのは名無しさんの方だった。
名無しさんの役割は、人間に罰することだ。
罪を犯した者への断罪。


「おう。来たか名無しさん」

「カミカゼさん!」


カミカゼ、と呼ばれる人物は世間ではアトミック侍と呼ばれている。
名無しさんは特別に、本名で呼ぶことを許された。
そのことが、自分は特別な存在なのだと、アトミック侍の唯一の存在だと勘違いしてしまう。
アトミック侍の罪は、神への不信仰。
彼は神という存在を信じていなかったし、頼りにもしない。
期限は一か月。一か月の内に、警告をして神への信仰心を持ってもらう。
もし変わらなければ、”死”という罰を与えなければならない。
最初はなんて人だ、と驚愕したがアトミック侍と一緒にいる内に名無しさんは心が傾いていることに気づいた。
アトミック侍の声が、温もりが、吐息が、愛おしいと。
今まで感じ他の事のない鼓動。顔に熱が集まる感覚。
天使の役割が、アトミック侍によって狂わせられる。


「名無しさん、ちょっとこっち座れ」

「?」


名無しさんが指定された所へ座る。アトミック侍は名無しさんの後ろへ行き、箱をあけた。
首へかける。


「わぁ……! 綺麗」


名無しさんの首には日差しが反射し、キラキラと光るネックレスだ。
初めて人間から物を貰った。人間から物を与えられるのは、信仰心か、祈りか。
きっと、どちらでもない。アトミック侍は名無しさんのことを一人の女性として見ている。
ネックレスは愛情の証だ。


「何が喜ぶか分からなくってよぉ。これが、名無しさんに似合うと思ったんだが」

「嬉しい」

「はは、そうか。良かった」

「愛しているわ、カミカゼさん」

名無しさんは幸せだった。アトミック侍といる日々が輝いている。
しかしそんな幸せは長く続くはずがない。
天使と人間。生きる意味が、役割が違う。
名無しさんは罰を与えなければならない。しかし、名無しさんは初めて人間に、長生きしてほしいと、幸せになってほしいと。
愛している人の命を奪う事は、名無しさんにできなかった。
一か月が経ち、名無しさんは何もせず空へと帰った。最後に聞こえたアトミック侍の声が、悲しい叫びだったのは辛いけれど。
この後神による罰が待ち受けようとも、名無しさんは耐えることができるだろう。
ペンダントを握りながら天へと昇っていく。


「愚かな天使、名無しさんよ。あぁ何てことを」
「地上に降り、一人の少年を誘惑し、罪を犯させなさい」
「そしてその少年の命を奪ってくるのだ」


大天使からそう言われた。名無しさんへの罰はそういうものだった。
そして、名無しさんはイアイアンのもとへ来たのだ。
──誘惑を、罰を、命を取らなければ。


「……?」


寒い。寒いはずなのに、汗ばんでいる。
名無しさんは目を覚まし、周りを見渡した。
イアイアンの家だ。いつも来ていた、絵画が飾られる家。
気づけば、手が紐とペンダントで拘束されていた。
何が起きているのか分からない。
すると、イアイアンが笑顔で立っていた。その笑顔に、名無しさんは恐怖を感じてしまう。
笑顔は良いもののはずなのに。幸せの証だというのに。
名無しさんは微笑みを返す。イアイアンは名無しさんの笑顔が好きであったはずだから。誘惑は成功したはずだから。


「イアイさん?」


名無しさんは今になって気づいた。イアイアンの片手にはノコギリが持たれていることに。
それが何を指すのか、これからイアイアンが何をするのか、名無しさんは理解してしまう。
愛と独占欲と嫉妬を混ぜて、出した結果がこうだった。
イアイアンは、名無しさんの愛情を手に入れたい。名無しさんを自分だけの物にしよとしている。


「やっやめて!」

「名無しさん、愛している」


イアイアンが名無しさんの頬に手を当てた。紅く染まる頬の感触が心地いい。
名無しさんの瞳から、涙が流れる。その涙は恐怖を示していた
長い爪が、イアイアンの頬を引っ搔いた。
恐怖の声と荒い吐息と強く立てる爪の感触。
赤く染まる頬の感触なんてイアイアンは気にも留めない。
羽に、刃が触れている。
過去のことを忘れて、消えた痕も思い出せないように。
名無しさんは、懇願のつもりでイアイアンへと唇を落とす。
イアイアンは、我に返る。こんなことをしても彼女を手に入れることはできないのだ。
頬の血が口に入り、嫌な味が口内に広がる。
名無しさんはイアイアンの襟元を掴み、まるで秘密を明かすように耳打ちする。


「私妊娠しているの」


それが命を助けて欲しいという願いであった。
しかし、イアイアンは


「あ……」


足元には、血だまりにいる名無しさん。手には羽。
気づけば自分も血だらけだ。頬が赤く染まっている。
息が荒い。呼吸が上手くできない。


「俺は、なにをっ……!」


イアイアンが、名無しさんの羽を手で毟ったのだ。
どんな痛みだったのか、イアイアンは知るすべもない。
とうにおかしくなっていた。名無しさんと出会ったその日から。
心を奪われたあの日から、きっと、イアイアンは、



イアイアンの部屋には、絵画の他にも色々な物が飾ってある。
中でも客人が目を奪われたのは、真っ白な汚れのない見る者を魅了する羽。
羽の下にいる赤子を、イアイアンは抱き上げた。
イアイアンと名無しさんからは絶対生まれない、くせっけの黒い髪。
肩甲骨に縦筋の傷。イアイアンはそれに触れて微笑んだ。
自分の子供のように。愛おしい物を見るように。


「この羽はより一層美しいですね」


イアイアンの客人の誰かが言った。
大きな羽の下には小さな羽が新しく飾られていた。


「えぇ、まるで本物の天使の羽みたいでしょう」


イアイアンが優しく微笑む。
哀れなのは、愚かなのは、狂っているのは、おかしくなってしまったのは、失望したのは。
一体どちらだっただろうか。
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