企画物BOOK

□罠
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寄宿舎の廊下をズズ……ズズ……と壁に手をつき、僅かに体を前傾させて足を引き摺る様にして彼は歩いていた。その表情は如何にも苦しそうで、荒い呼吸に合わせて肩が上下している。
いつもは冷ややかで鋭い、人としての感情すら欠落しているのでは無いのかすらとさえ思わされる三白眼の灰色の瞳は、今は瞳孔がグッと開きまるで獣の様にギラギラと妖しく光っていた。苦しげな吐息を漏らしている唇がブルル……と震えた。

「クソッ……何なんだこれは……」

彼は今、自分の中から止めどなく沸き上がってくる欲望に心底怯えていた。
そもそも何でこんな状況になっているのか、それは今から数時間前に遡る―…。


団長室から出たリヴァイは、手に持った書類に視線を落とし、面倒臭そうにチッと舌打ちをした。
明日の業務に関する確認事項をエルヴィンと話終え、もう自分の仕事は終わったはずだったのに、部屋を出る前にエルヴィンからヒョイと書類を手渡された。

「悪いがこの書類をハンジに渡してくれ。後で来ると言ってたが、彼女の事だから忘れてるだろう」

おもむろに嫌そうな顔をしながらリヴァイは書類を受け取ったが、エルヴィンはあえてそれに気付かない素振りで

「頼んだぞ」

とだけ言って彼を送り出した。
どうして自分が…という気持ちが芽生えないわけではないが、エルヴィンからの命令に“No”の選択肢は用意されてない。
ならばさっさと済ませようと、リヴァイは足早に廊下を進み、ハンジの部屋の扉をノックした。
中から能天気な返事が返って来て、苛立ちつつリヴァイはバンッと扉を開けた。

「あ、お疲れ様です、リヴァイ兵長」

何か文句を言う前に耳に届いた声と、視界に入った人物にリヴァイは喉まで出かかった声をグッと呑みこんだ。

「マホ?」

存在を確認する様に呼べば、「はい」と微笑み返されて、たった今までリヴァイの中にあった苛立ちは一瞬で吹き飛んだ。

「何か用事だった?リヴァイ?」

この部屋の主であるハンジはマホに丁寧に髪をブローされながら優雅に紅茶を啜ってそう聞いてくるので、その顔面目掛けてバサッとリヴァイは書類を放った。

「エルヴィンからだ」

そう短く言えば、それだけで理解したらしく、ハンジは「そうだった。忘れてた」とゴニョゴニョ呟き書類に目を通していた。
頷いているのか、髪の毛をブローされているからか、上下にハンジの頭は揺れている。
ハンジの頭に触れている手付きは丁寧で優しく、正に甲斐甲斐しいという言葉がピタリとハマっていた。

「何で、マホがクソメガネの頭を世話してやってるんだ?」

素朴な疑問をぶつけてみれば、フフフッとマホは柔らかく笑んだ。

「だって分隊長は、自分から進んでお風呂に入らないですから」

だから世話をして当然といったマホの様子に、リヴァイは呆れと、同時にハンジに対する羨ましさが芽生えてきた。

「はい、出来ました。じゃあ、私はもう戻りますね」

すっかり乾いたハンジの髪をひと房掬い取ってサララと流し落としながらマホが言う。

「有難う、マホ。」
「はい。失礼しました。おやすみなさい、分隊長、リヴァイ兵長」

扉の前で深く一礼して去って行くマホをハンジはヒラヒラと手を振って見送っている。その隣でリヴァイは、腕を組んだ仁王立ちの体制で、目だけでマホを見送っていた。
扉がバタンと閉まり、軽やかな足音がやがて聞こえなくなってからリヴァイはフゥと息を吐いた。それに反応する様に、ククッと潜もった笑いが隣の人物から漏れたので、ギロリとリヴァイはそちらを睨みつけた。

「なんだ。何がおかしい、クソ眼鏡」
「だってリヴァイって分かり易い」

言って、堪えきれなくなったのかブハッとハンジは吹き出して笑い出したので、リヴァイはますます不機嫌そうに彼女を睨みつけた。

「ごめんごめん。いやぁリヴァイって本当にマホの事が好きなんだなって思ったら」
「別に、そんなんじゃねぇよ」

言いながらフイと視線を反らすリヴァイをハンジはやはりおかしそうにニマニマと見つめる。

そうだ。別に、そんなんじゃない。
自分に言い聞かす様にリヴァイは心の中で呟いたが、まるでそれは嘘だと言わんばかりに心臓はドクドクと騒いでいた。

マホは、今年になって駐屯兵団から調査兵団に異動してきた兵士で、ハンジの研究チームのメンバーの1人だった。
一目惚れ、なんてものを自分がするとは今まで思いもしなかったが、初めてマホと対面した時、リヴァイはビビビッと電流が走るのを感じた。
別に驚く程綺麗というわけでも無いし、凄く色気があるというわけでも無い。リヴァイ自身も彼女の何にそこまで惹かれたのかよく分からぬまま、想いだけが募っていくのだった。


「リヴァイは、マホとどうこうなりたいとかは無いわけ?」

んー?と顏を覗き込む様にして聞いて来るハンジの鳩尾に蹴りを入れて、フンとリヴァイは嘲笑気味に笑った。

「鬱陶しい奴だな。巨人だけじゃ飽き足らず人の色恋も詮索したくなったのか」

人類最強の蹴りをくらってもハンジは笑顔のままなので、いよいよ気味が悪いとリヴァイは眉を顰めた。
そんな、リヴァイの目前に、ヒョイと小さな瓶が突き出された。
人差し指ぐらいの長さの小瓶には、薄桃色の液体が8分目ぐらいまで入っている。

「何だ……」

如何にも不審そうなその小瓶に眉をしかめて聞けば、ニコリと笑ったハンジの眼鏡の奥が妖しく光った。

「これ私が作ったんだけど、恋愛成就の薬なんだ」
「怪しい事この上ないな。言っとくがいらねぇぞ。そんなもん」

目前の小瓶を手で払おうとすれば、その前にヒュンとハンジが身を翻した。

「ほんとにいらない?」

勿体ぶる様に聞いてくるが、いるわけないだろうとリヴァイは半ば呆れてハンジを見ていた。

「この間、マホ、告白されたらしいよ?」

ピク、とリヴァイの眉が不自然に動いた。

「丁重にお断りしたらしいけど、どうやら、マホは好きな人がいるみたいなんだよね。リヴァイがいらないならこの薬はマホに……」

ハンジが言い終わる前にリヴァイは彼女の手から小瓶をもぎ取っていた。
別にマホと恋人になりたいからというわけでは無い。いや、多少はそういう気持ちも潜んではいるかもしれないが、何よりハンジが作った妖しい薬をマホに飲ませる事はしたくなかった。

「俺が飲む」
「最初から素直にそう言えばいいのに……」

してやったりといった顏のハンジを思い切り睨み付けながら、リヴァイは小瓶の蓋を開けた。
鼻先に瓶の口を近付けて匂いを嗅いでみるが、意外にも無臭で何の匂いもしなかった。
飲まずにこのまま、瓶をひっくり返して中身を床にぶちまけてしまえば、マホは勿論リヴァイも飲まずには済むだろう。
けれども、何故かその時リヴァイの頭の中に中身を捨てるという選択肢が無かった。
瓶の中で揺れる怪しげな薄ピンク色の液体に誘われる様にそのまま口を付けて一気に飲みほした。
熱くもなく冷たくもなく、そして味も無いそれは、不気味な程自然にリヴァイの喉の奥へと流れ込んで行った。
キュポッと瓶から口を離し、リヴァイは口元を手の甲で拭った。傍らではハンジが瞳を爛々とさせて彼の顏を覗き込んでいる。

「どう?どんな感じ?」
「別にどうもしねぇよ。変なモンばっか作ってねぇでマトモな研究しろ。クソ眼鏡」

空になった瓶をハンジに突き返すと、リヴァイは普段と何ら変わらない足取りで部屋を出て行った。
自分以外に誰もいなくなった部屋で、ハンジがニヤリと口角を上げていた事を、リヴァイは知る由も無かった。


そこまでは本当に普通だった。
口直しに酒でも呑もうか等と呑気に思いながら、自室へ向かっていたリヴァイだったが、自分の部屋の扉に手をかけようとした瞬間、思わず声を上げたくなるぐらいの高揚感がやってきたのだ。

「な……っ!?」

思わず自分の胸を抑えてその場に膝を付き、リヴァイはハッとする。
全身が尋常じゃない程に熱くなっているだけじゃない、心臓の鼓動が激しすぎるだけじゃない、自分の…男の部分がいつの間にか完全な状態で存在を主張していた。
いつ、何故、そんな事になる状況になったのか、たった今まで普通に廊下を歩き自室へ入ろうとしていただけだ。
何処にこうなる要素があったというのだろうか……。
そう思い巡らせれば、ピンク色の液体がリヴァイの脳裏を掠めた。寧ろそれ以外の理由等見つからないというぐらいに決定的に……。
“恋愛成就”などと、胡散臭い事この上ない説明をしていたが、これはそんなレベルじゃないとリヴァイは今、自分の身の上に起っている現象を目の当たりにしてそう思っていた。
例えるなら、一気に全身に酔いが回った様な熱と、少年時代の尽きる事のない性への関心と欲望……。
それらがひとまとめになってリヴァイの体に襲いかかってくるのだから、冷静でいられるはずが無かった。

欲しい……

どうしても

欲しい……

リヴァイの理性を置いてけぼりにして、ただただ貪欲な精神だけが先行し、リヴァイは廊下の壁に手を付いて立ち上がると、自分の部屋には入らず、再び廊下を歩き出した。
近頃こんなに元気にな姿は記憶にないと思える程に、自身は完全にいきり立っていて、辺りの皮膚が引き攣るかの様な感覚が走るので、リヴァイは前傾姿勢を保ったまま、誰かが見たら明らかにおかしいと思ってしまうだろう体勢で一歩、一歩、進んで行った。
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