企画物BOOK

□夢と理想と現実と
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「ジャン・キルシュタイン!!」

背中から飛んできた声に、ジャンは反射的にピクッと体を硬直させた。
ツカツカと規則正しいリズムで近付いて来る足音は、その人物の厳格な性格を示している様だ。
 真後ろまで近付いてきた足音がピタッと止まり、ジャンは(やれやれ。またか)と心の中で呟いてから、クルリと体ごと後ろを振り返った。

「なんでしょーか。マホ班長」

何処か不貞腐れた口振りでジャンが言うと、目の前に立っていた彼女は、自分よりも頭1つ分背の高いジャンを下から睨み付けて腕組みをした。

「なんでしょーかじゃない。さっきの訓練の態度は何だ?真面目にしろといつも言ってるだろ?」
「フザけてるつもりはないですが」
「いいや。真面目に取り組んでない。いつもお前はそうだ。訓練だからと気を抜いている。そんな事じゃ……――」

また始まった……とジャンは、自分を睨んでガミガミと突っ掛って来る上官をぼんやりと見下ろして、気付かれない様に小さく溜息を吐いた。
 ジャンとしては、フザけて訓練をしているつもりは全く無い。ただ、実戦の時と比べれば多少体に余裕を持たせてはいるが、そんな事はジャンだけでなく、他の兵にもいえる事だ。それなのに、自分ばかりがいつも目の敵の様に怒られる事にジャンは納得がいかなかった。
 とはいっても自分を叱って来るこの人は先輩であり、自分の所属する班の班長である。この組織特有の『所属する班のルールは班長』というコンプライアンスには逆らえるはずもなかった。

「――…だ。聞いているのか!?おい、ジャン!!」
「聞いてます。これからは気をつけます。」

覇気のない声でそう返せば、まだ納得のいかなさそうな顔をしながらも、彼女はフン、と鼻息を荒くして持ち場へ戻って行った。
 ようやく解放された、とピシリとしていた姿勢をゆったりと弛緩させながらジャンはドサリ、その場に腰を下した。

「またマホさんに叱られてたの?」

すぐ近くで見ていたらしいアルミンがタタタッと近付いてきて、皮袋に入った水を手渡しながら労う様に聞いて来る。
 ゴクゴクッと喉を鳴らして一気に水を飲んだジャンは、フーッと清々しそうな息を吐いてから、眉を寄せた。

「ったく……。ほんと、冗談じゃねーよ。きっとあの女は万年生理中なんだろーな」

そう悪態を吐くジャンに、アルミンは焦った様に周りと見回してから小声で言う。

「そんな事言っちゃダメだよ。ジャン。きっと、マホさんはジャンの事心配してくれてるんだよ」
「心配じゃねーよあれは。ただのやっかみだ」
「そんな事、ないと思うけど……」
「アルミンはあの女の班じゃないからそんな事言えるんだよ。」
「ジャン……」

それっきり、紡ぐ言葉に困ったのか口を閉じたアルミンは、隣の友人のやさぐれた表情に哀れむ様な視線を送っていた。その視線に気付きながらも、ジャンはもう彼女の事を口にするのも煩わしいとでも言いたげに、不貞寝だろうか、座ったまま腕を組み項垂れた姿勢で瞳を閉じた。
 調査兵団索敵特攻班。通称マホ班。ジャンはこの班に所属している事を今では心底後悔していた。
 今では……というのは、この班に選出された当時は当然ながら後悔はしていなかった。
 兵団の中でも特に立体機動の扱いに優れている兵士達で構成されているこの班に所属するという事は、つまり兵士として優秀だという事を物語っているわけで、104期生の中から選出されたのはジャン1人という事実は誇れる事だった。
 班長を務めるマホ・ネームは、厳格な表情をしているが、顏立ちは整っていて、『高嶺の花』だと男性兵士の間で秘かに噂されていた。
 調査兵団の中でもエリートともいえる班に所属出来て、おまけにその班を仕切る班長は美人とくれば、男としてもやり甲斐は加速するもので、ジャンも例外では無かった。
 が、蓋を開けて見ればジャンが想像していた世界はそこには無かった。立体機動の訓練のレベルは格段に上がり、班長には毎日の様に怒られる。確かに班の中で最年少であり、当然ながら兵歴の浅いジャンの実力は格下である事は違いないのだが、目が合えば怒られるといっても過言では無い今の状況にジャンの不満は溜まっていくばかりだった。

「あ、でも、明日は久々の休暇だよ!?」

元気づけるためか、大袈裟に手を打ち、努めて明るい声で言うアルミンに、ジャンは仕方なく笑い返す。

「あー。そうだな。まあ、1日でもあのやっかみ女と顔を合わせずに済むのは嬉しい限りだな」
「ジャンってば……」

何か言いかけたアルミンだったが、自分の所属する班の長から呼ばれ、慌てて走って行った。その背中を見送るでもなしにぼんやりと見ていたジャンもその数秒後に例の班長からの呼び声にビクッと姿勢を正すのだった。


次の日の夕暮れ過ぎ、トロスト区の街中を1人歩いていたジャンの表情は冴えない。ポケットにダラしなく両手を突っ込んで、目的地の定まっていない人間特有のブラブラとした歩き方でいるために、傍から見れば行くあてのない浮浪者にも見えなくない。

「せっかくの休みなのに何やってんだ俺は……」

自分にそう悪態をついて、ジャンは苦虫を噛み潰した様な表情で壁の向こうに落ちかけているオレンジを恨めしそうに睨みつけた。
せっかくの休みだというのに、起きたら夕方だった。グッスリ眠れたという点は休みを満喫したといえるだろうが、そんな休日の過ごし方はジャンの理想では無いのだ。

朝はキラキラと差し込む光と小鳥の囀りで目を覚まし(実家の部屋の窓は開ければお隣の家の壁が手の届く距離にあり、光など差し込まないが)、母親が用意してくれた朝食を頂き爽やかにコーヒーを飲み(元々コーヒーは飲めないが)、お気に入りの服に身を包んで軽快に外に飛び出し(母親が買ってくれた服を着ているだけだが)、愛しい恋人と待ち合わせてデートをする(そもそも恋人はいないが)。

それが、ジャンが思い浮かべる理想的な休日の過ごし方なのだ。夕方まで寝ていても、誰も起こしに来ない休日はジャンの理想とはかけ離れている。

「なにが『疲れてるだろうと思って』だ、あのババァ。」

母親の気遣いも、ジャンには嫌がらせにしか思えなかった。
 何にせよ時間が巻戻るわけでもないし、かといってそのまま家でゴロゴロするのも悔しくて、夕方ではあるがこうして外に出て休日らしくブラブラとしてみるのだった。
 夕暮れ時だからか、買い物籠を溢れさせながら急ぎ足で歩く人達で街は賑わっていた。それはいわゆる普通の日常の風景なのだが、兵団宿舎と訓練所を往復する日々のジャンにとっては懐かしくもあり、新鮮にも感じられた。

通りに面した平屋造りの集合住宅の一室から言い争う様な男女の声が漏れ聞こえてきて、ヤレヤレとジャンは肩を竦めた。
声の感じからして、まだ若い夫婦か恋人だ。

「痴話喧嘩かよ。平和だな、まったく」

そう呟いた声は、何処か羨ましげにも聞こえた。

兵士…それも調査兵団という組織に居ると、この様な日常的な平和も遠い世界になっていた。
 毎日が訓練、その訓練の成果を試す本番は生死が関わる現場。おまけに今自分が所属している班は更に命の危険が高い。あげく、班長とはどうもウマが合わない。
 明日になればまた同じ訓練の繰り返しで、班長からは理不尽だと思える程の小言を言われる日々だ。
 だからといって兵士を辞めようとは思わないものの、今のやるせない状況が続くのもウンザリとしてきていた。
 班のルールであり、自分をそこまで追い詰めている存在が脳裏を走り、ジャンは追い払う様に頭を乱暴にガシガシと掻いた。

「せっかくの休みなのに、あのやっかみ班長の事なんて思い出したくねーよ……」

本当にうんざりだといった声色でボソリとジャンは言う。
 しかし人間というのは不思議と、思い出したくないと思えば思う程に頭の中から追い出す事は出来ないものでジャンもそれは例外では無かった。
 彼女の休日はどんな感じなのだろうか……と無駄な想像力まで働かそうとしていた。
 といっても、優雅な休日を謳歌している様な姿は想像出来ず、彼女の厳格さを醸し出している様ないつもの髪型―前髪も一緒に後ろで纏め上げて、更に一本の乱れも許さないかの様にしっかりと固めている―で、やはり服装もいつも通りの兵服の姿した浮かんでこなかった。
 そもそも、休日の彼女の姿など、想像出来るはずもない。ジャンが知ってる彼女はビシッとした兵士の姿でしかなく、それが彼女を彼女たらしめる由縁でとあるのだ。

「休みでも訓練してそうだよな。あの班長さんは……」

皮肉めいた口ぶりでそう言って、ジャンは自嘲気味にフンっと鼻で笑った。

と、その時だった。
集合住宅の1つの部屋の扉が乱暴に開いたかと思うと、弾き出される様に女性がポンと出てきた。部屋の中から、姿は見えないが男性の怒鳴り声が後を追う様に飛んで来る。

「いい加減にしろ!もうウンザリだ!!」

先程から漏れ聞こえていた男の声と同じ声に、ジャンは(ああ、さっきの痴話喧嘩のカップルか)と納得して、部屋から追い出されたらしい女性の方をチラリと伺い見た。
爽やかなレモン色のカーディガンに、裾がフワリと広がった濃紺の膝丈のワンピース姿のその女性は、既に閉まった扉の前で俯いて立っている。
 胸の位置ぐらいまでの黒髪がタラリと女性の顔の輪郭を隠す様に垂れ下がっていて、表情はおろか顔すらも分からないが、きっと可憐な女性に違いない、とジャンは密かに胸をときめかせていた。
 その女性の手が髪に掛かり、バサリとかきあげる様にしながら俯けていた顏を上げていく様子を、ジャンは息を呑んで見守っていた。
 女性らしさを醸し出した服装に美しい黒髪。絶対に美しく可憐な女性に違いない、とジャンは確信していた。
 無理矢理にでも夕方から外に出た事を、心底良かったと思った。おかげで、美しい女性をこの目に納める事が出来るのだから……。
 女性の顏が完全に上がるまで、ジャンは片時も目を離さなかった。もしかしたら瞬きもしていなかったのかもしれない。
 が、その女性の顏を確認した瞬間、ジャンの体がピクッと硬直した。

「あ゛っ……!?」

蛙が踏みつぶされたかの様な、何ともいえない間抜けな声がジャンの口から漏れる。女性が、その声に釣られてジャンの方を見た。硬直したまま、ジャンの顏は引き攣って行く。
 その女性は、ジャンが思い描いた通り、確かに整った顏をしていた。10人に聞けば10人が美人というであろう顔立ちに、女性らしい洋服は溜息が出る程に似合っていた。
 だがその女性は、ジャンが今一番、苦手だと思っている人物の顏と、瓜二つだった。ついいましがた、優雅な休日を過ごしている姿など想像も出来なかった、あの彼女と……。
 他人の空似という事もあるし、もしかしたら彼女にはよく似た姉妹がいるのかもしれない、とジャンの頭の中は必死で目の前の女性と彼女を別人だと理解しようとしていた。どうしても、あの厳格な彼女とこの女性というのが結びつかないのだ。
 そんな、ジャンにトドメを指す様な言葉が女性の口から放たれた。
 その瞬間、周囲の雑踏も何もかも全てが遮断され、その女性の口の動きと耳に入って来る言葉だけに、ジャンの世界は支配された。

「ジャン・キルシュタイン……」

その声で、その顔で、ジャンの名前を呼ぶ人間など、1人しかいないのだ。
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