企画物BOOK
□Il adore.
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マホは盆に乗った器を慎重に運びながら、師団長室の扉をノックした。
「入れ。」
生真面目な声に、生唾を飲み込んでマホは扉を開いた。
「失礼します。コーヒーをお持ちしました。」
「そこに置いてくれ。」
机の上で険しい顔をして書類を睨みつけながら、この部屋の主であるナイル・ドークは顎でソファの前のテーブルを指した。
「はい。」
マホは、テーブルの上に零さない様に慎重を払いながらコーヒーカップを置いた。
トロスト区での女型の捕獲の一件以来、ナイルの機嫌はすこぶる良くない。いつも以上に険しい顔をして、普段ならそこまで怒らない様な事でも部下を叱り飛ばしたりしていて、皆が皆怯えていた。
コーヒーを運ぶのも、本来ならマホの仕事では無いのだが、先輩から行けと言われてビクビクと怯えながらやってきたのだ。
何とか自分の任務を果たすと、マホは立ち上がり
「失礼しました。」
と告げて部屋を出ようとした。
「待て。」
短く呼び止められて、マホはビクッとして足を止めた。
ナイルが机から立ち上がりソファへと移動してくる足音を聞きながら、マホは扉を向いていた体を、ゆっくり回転させて、ビクつきながらナイルの様子を伺った。
ナイルは先程マホがテーブルに置いた物をジッと見ている。
「これは、お前が用意したのか。」
「………あっ」
「答えろ。マホ。これは?」
「す、すみません。私が勝手に用意しました。」
ナイルが見ていたのは小皿に乗った数枚のバタークッキーで、マホは慌ててその小皿を片付けようとしたが、ナイルの手がそれを制した。
「片付けろとは言ってない。コーヒーに菓子が付いてきたのは初めてだでビックリしただけだ。しかし何故、菓子を?」
「そのっ……最近の師団長は酷くお疲れのご様子だったので、甘い物は疲労回復の効果があるので……すみません。勝手な事を……。」
「そうか……。君は俺の体を心配してこの菓子を用意したという訳なんだな。」
そう言うと、ナイルはクッキーを一枚手に取った。口元に持っていき、一度眉を顰めた後そのクッキーを一口、齧った。
無表情に口を動かしながらクッキーを咀嚼すると、ゴクンと飲み込んでナイルはフゥと息を吐いた。
「マホ。お前は菓子が好きか。」
突然そう問われ、マホはキョトンとしながらも失礼の無い様に警戒しながら答える。
「は…い。特にクッキーはよく食べます。」
「そうか。じゃあ、此処に座れ。一緒にこの菓子を食べろ。」
言いながら、ナイルはソファに腰掛けて自分の隣のスペースをポンポンと促す様に叩いた。
「えっ!?その、私は……」
「疲れてると思うなら、少し俺の体を休める為に話し相手になれ。黙って一人で座っていてもどうも頭の中はぐちゃぐちゃと色んな事が巡ってしょうがない。」
そんな事を言われても……とマホは困った顏でナイルを見ていた。
憲兵団の一兵士である自分が、師団長であるナイルの隣に座る事なんて畏れ多く、おまけに話し相手になれなどと言われても何を話せば良いのかもさっぱり分からない。
「早く座れ。」
痺れを切らした様にナイルは言うと、マホの細い手首を掴んでグイッと引っ張った。
ボスン、と柔らかいソファに包まれてマホは「すみませんすみません」とナイルに謝る。
「何を謝っている?」
不思議そうにしながらナイルはクッキーをもいう1枚、取るとそれをマホの目の前にちらつかせた。
「早く食べろ。」
そう言われて、マホは震える手でクッキーを受け取ると、ゆっくり口に運んだ。
「美味いか?」
そんな事を聞かれても、味などさっぱり分からない。
けれど、そんな事は言えずマホはコクコクと首を縦に振った。
妙に視線を感じて、俯いていた顏を上げると、ナイルがジーっとこちらを見ていて、マホの顔にカッと熱が篭る。
「顏が赤い……。」
そう言ってナイルは手を伸ばすとマホの赤い頬にソッと指を触れた。ビクッと肩が跳ね、マホは首まで真っ赤に染めた。
「し…師団長。あまり見ないで下さい!」
「何故だ?」
「はっ……恥ずかしいです。」
「そうか……。」
少しだけナイルは寂しそうな顔をして、もう1枚、クッキーを手に取るとマホの口元に持っていった。
「じゃぁ、口を開けろ。」
「はっ!?」
「食べろ。」
グイグイと唇にクッキーを当てられて、仕方なくマホが口を開ければ、スッとクッキーが押し込まれた。
一体これはどういう状況なのだろう。
とマホはクッキーを噛み砕きながらぼんやりと考えていた。
確かにこのクッキーを用意したのはマホ本人なのだが、それはナイルの為に用意したものであって、決して自分が食べる為では無いのに……。
「あの、師団長は、食べないのですか?」
「さっき1枚食べた。」
「ですが……。」
「食べるより、見てる方が面白い。」
ああ、師団長は今、私を虐めて楽しんでいるのか……。
そう思うと妙にマホはスッキリした。少しでもナイルを癒やせたらと思って用意したクッキーは余り効果が無かった様だが、自分を虐める事でナイルが楽しいのなら、それも癒やした事になると思ったのだ。
小皿に残った最後の一枚のクッキーをナイルは手に取ると、再びマホの口元に持っていった。
「半分も、食べないですか?」
「ああ。お前が食べる方が似合ってる。」
「そういう問題では……。」
「早く食べろ。」
仕方なくまたクッキーを食べる。いい加減落ち着いてきた脳が、クッキーの優しい甘さを伝えてきてくれてマホは幸せそうに笑った。
「嬉しそうだな。」
「えっ!?あ……。美味しいなって思って。」
「確かに、美味そうに食べてたな。」
「そうでしたか?でも、本当は師団長に全部食べてほしかったんですが……。」
「そうか……なら―」
ナイルはマホの肩に腕を回すと、彼女の唇にチュッと吸い付いた。
突然の事に動けないマホはそのままにして、ナイルは彼女の唇を割って舌を捩じ込むと、味わい尽くす様に彼女の口内に舌を這わせた。
しばらくして、唇を離すと満足そうにナイルは笑う。
「甘い……な。」
ようやく我に返ったマホは再び顏を真っ赤にして涙目でナイルを睨んだ。
「なっ……何するんですか!!??」
「お前が余りに美味そうに食べてたから味わいたくなった。」
「い、いや、そういう事じゃないです!!何でこんな事……。」
ナイルは困った様に自分の短い髪を掻くと、妙にぎこちない動きでマホの肩に手を置きソッと抱き寄せた。
「すまん。そこまで嫌がられるとは思わなかった。ただ、お前が俺の事を考えて菓子を持ってきてくれたと聞いたら嬉しくなって……な。何故か、無性にお前が愛おしく思えた。」
「い、いいです。謝らないで下さい。」
別に嫌だったわけでは無い、とマホは心の中でそう呟いた。
ただただ、恥ずかしかっただけで、本当は少し嬉しいとさえ思った。
「もう、俺にコーヒーを運ぶのは嫌か。」
「い…いいえ。」
「なら、これからもお前がコーヒーを持ってこい。後、菓子もだ。」
「で、でも召し上がっていただけないんじゃ……。」
「食べる。その代わり、マホ。お前も一緒に座って食べろ。いいな。」
そんなよく分からない契約をさせられて、マホは首を傾げながらも頷くのだった。
ナイルが本当は甘い物が苦手で、それでも何とか食べていたという事実をマホが知るのはもうしばらく後の事になる――…。
―END―