企画物BOOK

□Souvenir
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 大量の蠅と蛆と饐える様な匂いの蔓延する中で、私はそれを聞かされた。

 視界に広がる景色は確かに地獄だけど、それでも信じたくない。

 何も貴方が残っていないのに、一体どうやって信じろというのだろうか。

 信じたくない。

 信じたくないのに……。

 貴方はまだ私の元へ帰ってきてはくれない。


********************


「おはようございます。イアン。」

リビングにやってきたイアンに気付いて、私はそう声を掛けると、鍋にかけていた火を止めた。

「ああ。おはよう。いい匂いだな。」
「野菜をたっぷり入れたスープです。すぐ朝食の用意を……」

私が食器棚からお皿を出しているのを見てイアンはオーブンに入ったパンを取り出すと籠に移してくれていた。

「あ、座ってて下さい。」

イアンに手伝わせるのは気が引けるのでいつもそう言うけれど、イアンは毎朝こうして手伝ってくれる。

「マホはいつまで経っても他人行儀だな。」

私の頭をクシャッと撫でながらイアンは笑うと、パン籠を持ってテーブルに着いた。

「す……すみません。」

言いながら、私もお鍋の中で湯気を立てているスープを器によそった。

 私とイアンが夫婦という関係になってもう半年が経つ。だけど、私は未だにイアンに対して敬語で接してしまう。
 そもそも、私とイアンは大恋愛の末結婚したという訳では無くて、見合い結婚だった。
両親を流行り病で亡くした私を心配して、両親の友人が取り持ってくれた。
 駐屯兵団の精鋭部隊の班長をしている人物だとしか聞いていなかったので、対面した時は凄く怖かった。背は高いし、目は鋭いし、しかも無口で、この人と結婚して私は上手く行くのだろうかという不安さえ感じていた。
 それが、無駄な心配だったと気付くのは一緒に暮らし始めてすぐだった。
 

 彼は、とても、優しい人だった。


「マホの作るスープは本当に美味いな。」
「そんな褒めても何も出ないですよ。」
「君が妻で居る事が最高の褒美だ。」

 彼と仕事をしている人から言わせると、彼は真面目で、冗談なんて言うタイプでは無いらしいが、私の前での彼は冗談すら言ってくる。


「そろそろ敬語は止めろ。」
「でも癖なんです。なかなか抜けなくて。」
「正直、抱いている時まで敬語を使われるのはちょっと気分が落ちるんだが……」
「あ、朝から何言ってるんですか!!」


 そして、厳しい人間だと言うのもよく耳にするけれど、私はイアンに怒鳴られたりした事は一度も無かった。

「そういえばマホ。昨日も話したが、今使ってるペンがもうインクが無くなりそうだ。買っておいてくれたか?」
「ああ!!忘れてました……。ごめんなさい。今日必ず。」
「買いに行けたらでいいぞ。じゃぁ、行ってくる。」
「行ってらっしゃい。」

 玄関前でイアンを見送り、唇にソッとキスをする。結婚してから一日たりとも欠かした事は無い。
 



「このペン。下さい。」

今日こそは忘れない様にと私は買い物に出て一番初めて文具屋に立ち寄った。

「はいよ!マホちゃん。イアンが使うのかい?」

私が選んだ軸が紫黒色の万年筆を見て、顔馴染みの店主が聞く。

「はい。使ってたペンのインクが無くなったんですって。昨日言われてたのに買い忘れちゃって……。」

頭を掻いて言う私に笑って店主はその万年筆の隣に並べられていた、軸が撫子色の同じ種類の万年筆を手にした。

「どうせなら夫婦で色違いを持ったらどうだい?マホちゃんの分は俺からの遅れた結婚祝いって事でおまけするよ!」
「え!いいんですか?」

店主の手の中の二本の万年筆に目を輝かすマホを見て店主はうんうんと頷いた。
 トロスト区内で一番栄えている商店街。ここにくれば食料品から日用雑貨まで何でも揃うので私の買い物はいつもこの商店街だ。駐屯兵団の精鋭部隊の班長であるイアンは当然商店街では皆が知っている有名人で、その妻である私にも優しく声をかけてくれる人は多く、人情味溢れるこの商店街が私は好きだった。
 文具屋の店主に礼を言って万年筆を受け取ると、私は八百屋を目指して歩き出した。
 買い物籠の中に入っている万年筆をチラッと見て思わず顔がにやける。


 その時だった。
 突然稲光の様な閃光が空に瞬いた。
 それは、一瞬だったけれど何か凄く嫌な予感がして私は辺りをキョロキョロ見回した。
 
 商店の店主、買い物客、皆が皆、遥か遠くにある壁の方を眺めていた。私も皆に倣って壁に目を向けた。

 煙が……壁の一部分から煙が上がっているのが遥か遠くからでも確認出来た。

 ドォンッ…………………

 直後激しい地響きがして、私を含めた何人かが足元を掬われてその場に倒れた。

「な、何?」

 すぐに立ち上がり、買い物籠の中の万年筆が無事なのを確認すると、状況を確認しようともう一度壁の方を見たが、煙の所為でよく分からない。
 
 誰かの叫び声が聞こえた。

「お、おい、巨人だ!!!!巨人が入ってきた!!!!」

 声を辿る様に上を見上げると、すぐ近くの集合住宅の5階の窓から顔を出して壁の方を見ていた男の声だった。

 巨人、という単語に周囲が一気にパニックになる。
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