Pandora Box

□Secret
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 夕立は弱まり、少しずつ雨雲が流れて行く。雲の隙間から青い空が覗きはじめ、太陽の光が筋のように降り注いだ。
 家々の窓や葉についた水が、世界を煌めかせている。

 アテナ。

 宝飾屋の店内に、リヴァイの小さな声が溶けて消えた。
 溢れ出して止まらない。胸の内から、水が沸き出すような感覚。

 押さえ込んでいたものが、ふと解放されたのだ。当然とも言えるだろう。

 そんなリヴァイの感情に押し出されたのか、彼の手から木製の指輪達が零れ落ちて行った。カラカラッ、カラッ、カラッ、と彼を祝福するように、床の上で跳ね転がっている。

「ああ! ちょっと、お前さん!」

  何やってんだい、と女店主は声を上げ、棚の下やらに転がって行くそれらを追いかける。

 リヴァイはハッと我に返って、床に這いつくばる女店主を見下ろした。自分の手の中にあったはずの木製の指輪は、全て床に落ちてしまっている。

「……悪い」

 リヴァイも屈んで、散らばってしまった指輪を拾い集めた。女店主は細長い褐色の腕を棚の下へと伸ばし、全くだよ、と呆れの溜息をつく。

「何をぼーっとしてたんだい?」

 リヴァイは答えず、ただ自身の感情に戸惑っていた。胸が高鳴り、酷く煩い。身体は熱く、じんじんと痺れるように痛む。頭の中はアテナのことで一杯で、それ以外のものが入り込む余地がなかった。

 とにかく、早くアテナに会いたい。
 触れて、抱き締めて。とにかく、あの温もりを感じたかった。

 雨水の付いた窓から、オレンジ色の光が射し込む。
 店内が急に明るくなり、宝飾品が気怠げに輝く中でリヴァイ達は目を細めた。2人揃って、窓を見上げる。

「おや、晴れたみたいだね」

 女店主は立ち上がり、んー、と両腕を上にやって背を伸ばした。リヴァイも立ち上がって、首を鳴らす。

「早めに返しとくれよ。それも商売道具なんだ」

 女店主は拾い集めた木製の指輪を、リヴァイに手渡した。それから、と続ける。

「今度は落としなさんな」

「……あぁ」

 雨も止んだことだし、自分もモーリスの店に戻らなくては。リヴァイは木製の指輪をスラックスのポケットに突っ込む。

「そういや、『アテナ』ってのかい? 指輪渡す人は」

 リヴァイはじとり、と女店主の真っ黒い瞳を睨んだ。

「……そうだが?」

「お前さんは?」

 リヴァイは少しばかり沈黙し、彼女が何をしようとしているのか考える。自分のことを悪用する人間かもしれない。

 しかし、彼女はどうみてもただの商売人だ。疑うだけ無駄だろう。

「……リヴァイ」

「リヴァイ、ね。よし、リヴァイ。お前さんのサイズは今ここで測っちまおう」

「は? 俺のはいらねぇよ」

 もう「金がない」は通用しないと思い、リヴァイはきっぱりと断る。

「揃いの方が良いじゃん。ああ、そうだ。指輪に名前を彫るかい? 本当は金取るんだけどね、特別にタダでやったげるよ」

 女店主は両手を細い腰に当てて、どうだ、と言わんばかりに胸を張る。しかし、リヴァイの眉は否定的に歪むだけだった。

「んな恥ずかしいこと出来るか」

「良いじゃんか。このあたしがタダでやったげるっつってんだからさ」

 中々ないよ? 女店主の口端が、にっ、と持ち上がる。

 反対に、リヴァイの口端は下がった。
 揃いの指輪に互いの名前? 冗談じゃない。

「……女はそういうの、どう思うんだ」

 リヴァイに再び訊かれ、女店主は呆れた笑いを浮かべた。本当に、彼は分かっていないようだ。
 女店主はきつい印象を受ける目を優しく細め、何処か遠くを見つめる。

「そりゃぁ嬉しいさ」

「それはてめぇの主観じゃねぇのか?」

 疑い深く訊いてくるリヴァイに、女店主はこめかみを指で掻く。

「まぁ、そう言われちゃぁお仕舞いってもんさ。でも……」

 彼女は濃い睫毛を僅かに震わせ、左手の薬指にはめている金色の指輪を撫でた。それを見て、彼女には夫がいるのだと気付く。彼女を見る限り、『姉さん女房』といった感じなのだろう。

「女はいつだって、『特別』に憧れる生き物なのさ」

 リヴァイは彼女の遠い瞳と、愛おしそうに指輪を撫でる指先を見て、目を細める。
 きっと、あの指輪には彼女の夫の名が刻まれているのだろう。

(……名前か)

 いや、やっぱり自分には無理だ。そんなこと、恥ずかしくて出来やしない。しかし、アテナの喜ぶ姿は見たいとも思う。

(喜ぶかどうかも、いや、受け取るかどうかも分からねぇのに……)

 それでも、アテナが喜びそうな何かを、彼女へ贈りたい。この溢れ出した感情を、どうにかして伝えたかった。
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