Pandora Box
□Vow
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季節は夏にさしかかるが、土地柄の関係もあって朝晩にはカーディガン等の羽織物が必要だ。
ペトラは新しく買ってもらった桜色のカーディガンを着、首を引っ込めて夜の食事を取る。
本当は嬉しいはずのカーディガンが、ちっとも嬉しくない。
本当は美味しいはずの食事が、酷く味気ない。
空色の瞳は不安げに、アテナとリヴァイを交互に見る。
アテナはかちゃりとスプーンをスープの器へ戻し、強張った笑みをリヴァイへ向けた。
「あの……リヴァイさん。今、何とおっしゃったのでしょうか……?」
「……だから、昼は地下街へ出る」
夜の食事を味気なくさせたのは、数秒前にも発せられたこの言葉だった。
アテナは動揺して立ちあがり、両手をテーブルについてリヴァイに詰め寄った。
「そ、そんな。どうしてですか……?」
リヴァイは答えず、スープを啜った。ただ眉間のシワを濃くする。
言いたくなかった。
やはりアテナにだけ金を使わせるのが忍びなく、かといって地下街の住人である自分が真っ当な仕事になど就けるわけがない。
そんな自分を雇おうという人間はいないだろうし、そもそも、誰かの下で働くなどご免である。となると、はした金にはなるが、やはり地下街のゴロツキ共から巻き上げてくるしかないのだ。
「……地下街の……老人共が気がかりでな」
リヴァイがぼそりとそう言うと、アテナは小さく声を漏らして席に戻った。リヴァイが地下街の子どもや老人を気にかけていたのは、彼をここへ連れてきた夜に聞いたことがあった。ペトラの兄を含め、リヴァイが面倒を見ていた地下街の子どもは、もういないのだが。
「……すみません」
リヴァイは泣きそうなアテナに罪悪感を覚えつつも、いや、と返してパンを食べる。パサパサになる口内を潤すため、汲んできたばかりの冷たい水でパンを流し込んだ。ごくりとリヴァイの喉仏が上下するのを見て、ペトラが不安げに見上げる。
「りばいおにぃちゃん、あそこにかえっちゃうのー?」
「出掛けるだけだっつってんだろ……」
「ただいまするー?」
「あぁ」
それを聞いて、ペトラは表情を明るくした。
「ペトラもいくー!」
「駄目だ。家に居ろ」
「えぇー!」
ペトラは、不満に声を上げた。リヴァイは、うるせぇ、と言いつつもペトラの口周りの汚れを拭ってやって黙らせる。
リヴァイはアテナの表情を横目で窺う。アテナは俯いて、皿の食事をつつき回すようにぼそぼそと食べるだけで、一向に減らない。
結局それ以上は口に入らず、ほとんどが残飯となってしまった。
いつもよりは気まずい空気で、いつものように風呂に入り、ペトラを寝かしつける。リヴァイは左腕に少女2人分の頭の重みを感じつつ、アテナが紡ぐ童謡をペトラと一緒に聴きながら目を閉じている。
ペトラの寝息が安定すると、アテナはふつりと歌を止めた。アテナは上半身を起こし、ベッドにぺたりと座ると、夜の色を含み灰緑になった髪を耳にかけた。
「あの……リヴァイさん……」
リヴァイはゆるりと目を開け、アテナを見た。不安そうな翡翠の瞳が揺れている。
「本当ですか? 地下街に行く……理由は……」
そう訊かれ、リヴァイはムッと顔を歪める。図星だった。その動揺を隠そうとして、リヴァイの声には棘が立つ。
「何だてめぇ……疑ってんのか?」
リヴァイの低い声に、アテナはきゅっと唇を閉ざして視線を彷徨わせた。リヴァイはそれを肯定と受け取り、鈍く痛む自身の左胸に舌を打つ。
つまり、自分はこの少女に信用されていないのだ。
舌打ちの音を聞いて、アテナの肩が怯えたように、ひくり、と揺れた。じわりと大きな目の縁に涙がたまるのを見て、リヴァイは慌ててペトラを腕から下ろすと起き上がった。
「泣くほどのことじゃねぇだろ……」
「……嫌です」
「あ……?」
「嫌なんです……」
アテナがぽろぽろと涙と一緒に、苦しそうな言葉を零す。
「疑いたくなんか……ないんです……」
「だったら」
「でも……」
一度言葉を区切って、アテナは再度言いなおす。
「でも、リヴァイさんがまた……あの女の人と……」
リヴァイはヒヤリと背を伝う汗に、身体を硬直させる。アテナはそこまで言うとさらに涙を零し、何度も何度も涙を拭い、それ以上に何度も何度も謝罪を繰り返した。
もうリヴァイの頭からはすっかりと消えていた『あの女』。自分が地下街に帰った際に抱いた金髪の商売女――名前は目の前の少女と同じく『アテナ』――のことだ。
しかし、アテナにとっては余程衝撃的な出来事だったのか、リヴァイはまた女を買いに行くのだと思っているらしい。
「そうではないと、わかっているんです……いるんですけれど……」
アテナはぐすりと鼻を啜って、すみません、と震えた謝罪を落とした。