短編

□2013ハロウィン小説
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「こんばんは」


いやに月が大きく見える、明るい夜だった。
誘われるように普段はしない寄り道をして、踏み入れた薄暗い森は煌々と照らす月明かりのおかげで獣道でもなんなく歩けたために、
そのまま足を止めることはなく。
奥へ奥へと進むうちに来た方向を見失って彷徨っていることに気がついても不思議と恐ろしくはなかったのは、予感がしていたからかもしれない。

生い茂っていた木立が唐突に開けてまろびでた小さな広場。

丁度自分と広場を挟んで反対側の高い木の枝から声が届く。
しっとりとした不可思議な夜にふさわしい天鵞絨のように柔らかでいて、気高く玲瓏とした響きを持つその声は張りあげられた訳でもないのにこの耳に確かに届き、心を揺らす。
声の主を探すように彷徨う視線は、やがて枝に腰掛ける人影へと留まる。

古風なデザインの黒いドレスを纏った、華奢な女性のようであった。
機嫌よさそうにくすくすと笑うその人に合わせて、彼女が身体を預ける枝の葉がさやさやと揺れる―・・・あぁ、いや。

葉が揺れたのは、彼女が笑った振動が伝わった訳ではない。

それが眼に入った途端にふわふわと夢見心地であった思考が一瞬で醒めて、ぎくりと身体を強張らせた。


「・・・吸血鬼か」

「ん?随分意思が強いんだな、暗示が解けたのか」


愉快そうにまた笑う彼女の背には、艶やかな蝙蝠の羽根が生えていた。
どうやら自分が彼女の暗示にかけられてここまで誘き寄せられたのだと悟ると、すっと腰の刀へと手をかける。これでも国で一二を争う使い手なのだ、倒すことは無理でも逃げ切ることはできるはずである。

ところがにわかに警戒を顕にする私と対照的に、枝の上に腰掛ける吸血鬼は余裕を崩さぬどころかふわりと体重を感じさせぬ動きで地面へと舞い降りてくる。
・・・その優美な舞いのような様子に、見惚れた自分がいた。
彼ら吸血鬼は美しいその容姿と強力な魅了の力で獲物の心を捕えて血を啜るのだと、暗示を破り正体を知ってもなお強烈に惹きつける引力に冷静な心のどこかで舌を巻く。
吸血鬼は金縛りにでもあったように身動きのとれなくなった私の様子を知ってか知らずか、ひょこひょこと軽い足取りでこちら側へと近づいてきた。


その時、眩しいほどであった月に雲がかかる。


さくさくと草を踏む音と、微かな衣擦れの音がひそやかに奏でられる虫の鳴き声に紛れて耳朶をくすぐり、顔も判然としない吸血鬼の香水だろうか、甘やかな花の匂いが風と共に届く。
身体が動かないのは魔力でもなんでもなく、自分自身の好奇心が故だと此の時にはもう知っていた。怖いもの見たさとはよく言ったもので、刀の間合いに相手が入ったと見た瞬間に切りかかれなかったのは鍛錬を積みそんじょそこらの魔物の暗示にはかからない自分を確かに絡め取っていた相手の顔が見たかったからだ。


月を覆っていた分厚い雲が、ざあっと強く吹いた風に押し流される。
白銀の輝きはゆるやかに、相手の漆黒のドレスの裾から上へと照らしだして闇に溶けていた全貌を顕にしてゆく。
勿体ぶったスポットライトに焦れたのだろうか、顔を覆う最後の暗幕を切り捨てたのは吸血鬼自身だった。


「こんばんは、武官殿」


夜目にも鮮やかなアメジストがきらきらと、嬉しそうに瞬く。
彼らが好むという薔薇よりなお紅いふっくらとした唇もまた綺麗に弧を描いている。
闇の中で浮き上がる様に白い肌をした、ほっそりとした腕がついと伸ばされて自分の胸に置かれるまで、情けない話、私は我を忘れて彼女に見惚れていた。


―魔物はその美しさで相手の魂を虜にする


何度も繰り返し、部下に教え込んだ言葉が脳裏に木霊する。
あぁそれでも。
今までこれほど美しい魔物と出会ったことなどなかったのだ。


「こんばんは、吸血鬼の姫君」


彼女が二度目の挨拶を投げかけてきたのだと、どうにかぎこちなく動き出した頭が理解して返したのは何の捻りもない言葉であったが、それをきっかけにようやく自分で自分にかけていた金縛りが解ける。
まぁ、解けたとしてもあまりに近い位置にいる吸血鬼相手に刀を向けることすらできないで突っ立っているのだから意味はなかったが。

吸血鬼はといえば、何故だか不機嫌そうな顔をして唇を尖らせた。
魔物の年齢は見た目通りではないとしても、自分よりも年下の外見をした彼女がするにはやや子供じみた仕草は、けれどよく彼女に似合っていた。


「姫君なんて身の毛のよだつ呼ばれ方をするのなら、いっそ化け物呼ばわりの方がましだ」

「一応その美貌に敬意を表したんだが?」

「一皮むけば毛むくじゃらの蝙蝠なのに?」


打てば響く様な応酬は昔からの気心知れた間柄のようで、うっかり会話を楽しんでいる自分がいる。
それを追求するのはなにやらまずい気がするから、ひとまず皮肉気に同族を嘲笑うような言い方をした眼の前の吸血鬼に意識を戻した。


「随分ストレートな言い方をするんだな」

「事実だろう。純血の奴らの中身は蝙蝠、そいつに圏族にされた奴らは主と生き血に縛られたゾンビだ」

「そうやって同族を馬鹿にしている君はどちらなんだ」

「私か?」


ずばずばと身も蓋もない事を言ってのけていた吸血鬼はぱちりと瞬く。
こちらがたじろぐほどに真っ直ぐに見上げてきたアメジストは、それまでの少女めいた無邪気さが鳴りを潜めている。


「私は成りかけだ。親友だと信じていた相手に咬まれて、圏族にされる寸前で相手を殺して逃げ出した・・・・」


成りかけとは、人間でも魔物でもない狭間にある者を言う。
両者の力関係からして滅多に現れず、現れたとしても生き延びることも少ないために今では幻とすら思われている存在だ。


信じられない思いで眼の前の華奢な吸血鬼を見下ろす。

そう言われてみれば、確かに彼女は純血の魔物特有の縦に細長い瞳孔を持っておらず、眼を奪われた白い肌にしても圏族たちのような血の気の失せた病的な白さとは違う血の通ったものである。

そっと刀を握っていない方の手を細い首筋へと伸ばせば、少し目を細めるだけで彼女は拒まず、僅かに震える指先は常人よりはるかにゆっくりではあるものの確かに脈打つ血潮をその肌の下に感じ取る。


「・・・・生きているのか」

「まぁ、魔物も魔物なりの生を生きてはいるんだが。一応私は人間として生きているな」


だが大地の育む糧を食べても血にはならず、他人の血を啜らねばすぐに死ぬ。
純血の魔物以上に強い魅了の力を持ちはするものの、単純な腕力ならば人間と変わらない。

人間としても魔物としても中途半端な、どちらにも属せないノイズ―それが成りかけ。


自嘲するように呟いて、吸血鬼は首筋に宛がわれたままの私の手に自分の手をそっと重ねる。その手を握り返しながら、私は惰性で握っていた刀を鞘へと戻した・・・ひんやりとしたその手の主に刀を向ける気はもう、なかった。

不思議そうにこちらを見上げる吸血鬼に問いかけた。


「君は何故、そんなことを私に話す。流石に成りかけの暗示を直接掛けられたら、私も抵抗できないから血を奪えると思うんだが」


実際ここまでのこのこと誘き出されただけに確信がある。
妙に胸をはる自分におかしそうに小さく笑いながら、吸血鬼は手を握る私の手に頬を寄せた。その仕草にどきりと心臓がはねたのを悟られやしないかと私は気が気でなかったのだが、幸いにも彼女は気付かずにぽつりぽつりと呟いた。


「親友に噛まれて、親友を殺して。変質してしまった身体の衝動に耐えきれずに兄妹や両親を殺して・・・、ようやく理性が戻ってきたのはつい最近。血を呑まないとそろそろ死ぬんだが、なぁ。どうしてそうまでして生きなくてはいけないんだ。人間と共に暮らすこともできず、同じ魔物からは狙われて。どちらもの目から逃れて森に隠れ住んで、そんなことまでして生きる意味がどこにある」


一人ぼっちで生きるのは辛い、と。
相変わらず綺麗なのに悲しみを湛えるアメジストにこちらまで心が痛んだ。
希少極まりない成りかけは、魔物にとって極上の餌なのだと聞いている。そして魔物から逃れるために人間のなかに溶け込もうにもその蝙蝠の羽根は彼女が何者かをあからさまに示してそれを許さない。
紛れもなく彼女は被害者なのに、それを助ける手はどちらからも伸ばされないのだ。

上質な黒いドレスの裾が、よく見ればところどころほつれているのに気がついてやるせなくなる自分を余所に、彼女は言葉を続けた。


「・・・理性を取り戻して、初めて今夜魅了の力を使った。そして、お前が来たんだ。運命だと思ったよ」

「それはどういう、」

「なぁ、武官殿」


もう疲れた、そう彼女は笑う。


「お前のその刀で、私を殺してほしい」


言葉を返せないまま身を強張らせる私に縋る様に、彼女の頭が胸に預けられる。
握ったままの手は僅かに温まってぬくもりを返してくるのに、もう一方の手で触れた絹糸の様な髪はすべらかな手触りを返してくるのに、彼女は一心に自分に死を望んでくる。

その事実に、かっと身の内を焦がすような感情が湧きおこった。

運命だと、そう心を奪うほどの笑みで私を見つめるくせにどうして終わりばかりを望む。勝手に魅了して、勝手に誘き寄せて、そうして勝手に終わろうとするなんて勝手すぎる。
無防備に身を寄せてくるのはこの刀が故だというのか、呪われた命を切り捨ててくれる相手であれば誰であっても許したのか。

・・・堰を切ったように暴れる感情は、決して自覚してはならないはずの答えを容易く導きだして私へと差し出し、それに手を伸ばすことを私は躊躇わなかった。


(運命だと、いうのなら)


手を解き、そっと彼女の体を押し返す。
相変わらず笑みを浮かべたままの彼女に眼を閉じるよう言えば、彼女はほっとしたような顔をして静かに従った。

月明かりの下、眼を閉じて、敬虔な信者のように手を組んで佇む美しい吸血鬼の姿は、その背に生えるのが神に背いた悪魔のものと同じ羽根であることを差し引いてもぞっとするほどに神々しく、冒しがたい雰囲気を湛えた宗教画のようである。

そんな彼女の前で、静かに私は腰に戻した刀を抜き放った。

かちゃり、と。
僅かに鳴った金属音に、彼女の浮かべる笑みが深くなる。
それを見とめて更に身体の内で燃え盛る感情の温度が増すのを感じながら、刀を構えた。





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