覇道をゆく者

□仲直りは戦のあとで
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「孟徳っ!!」

夏侯惇の怒号が執務室に響く。曹操は耳をほじるふりをしながら横を向いている。傍に控えている従者たちは猛将軍の剣幕に慄き、目を合わせぬよう下を向いている。

「大きな声を出さずとも聞こえておる」

曹操はのらりくらりと答える。その態度がまた火に油で夏侯惇の額には青筋が浮かび上がっている。

「関羽を欲しいのは分かるが行き過ぎた。あれでは他の将たちの心象も悪くなるぞ」

夏侯惇が低く押し殺した声で曹操に迫る。

「関羽ほどの逸材は他に類を見ぬ。どうにかして我が手に入れたいのだ」

曹操は夏侯惇の話をまるで聞いてないかのような返事をする。その返事に夏侯惇は余計に頭に血が上る。

「お前の人材登用について俺は今まで何も口出ししなかった。だが、今回ばかりは言わせてもらうぞ!」

夏侯惇が怒るのも無理はない。曹操の関羽に対する執着は他の者の目にも明らかで、贈物や酒の席への誘いなど古くからいる将達が必ずしも快く思っていないのは確かだ。この間など侍女を20人も送り込んだというではないか。関羽がいくら秀でた武を持っていようともこれでは士気にかかわる、そう思って夏侯惇は曹操に直々に話来たのだった。

「お主、妬いておるのか」

曹操が夏侯惇に向き直って言う。

「な…!!」

夏侯惇はその言葉に呆れて口がふさがらない。驚いた表情のまま固まってしまった。

「そうだろう、この間も酒宴で関羽が儂の隣におったしな。それに儂が最近相手をしていないから寂しいのであろう。良いぞ、今夜閨へ来い」

曹操が余裕の表情を見せる。夏侯惇は下を向いたままプルプルと震えている。そして次の瞬間烈火のごとく怒りを露わにし、執務机に両手をドンと置いた。

「ぶざけるな!!俺はお前の為を思って忠言しているというのに、それなのに…」

感極まって言葉が出ない。夏侯惇は悔しさに置く場をギリと噛みしめ、しばし黙り込むとそのまま部屋を出て行った。

「ぬう…ちとやりすぎたかのう…」

さすがの曹操もその様子に悪いを思ったのか困り顔だ。そこへ郭嘉が入れ違いに入ってくる。

「また将軍を怒らせたのです?」

郭嘉の言葉に曹操はその顔をじろりと睨む。

「しかし、今回はかなり派手に怒ってましたね。しばらく続くんじゃないですか」

曹操はその言葉を聞き、心配になった。夏侯惇の言葉はもっともで自分にも痛い部分だった。それを誤魔化すために笑い飛ばしてしまったことで夏侯惇を怒らせてしまった。しかも、最近関羽の接待にかまけていて夏侯惇とゆっくり話をしていない。しばらくご無沙汰でもある。

「悪いことをしたかもしれぬのう」

「泣いてましたよ、夏侯惇殿」

郭嘉の言葉に曹操はさすがに罪悪感を覚えた。今夜夏侯惇の部屋へ酒を持って訪れようと決めた。




その夜、曹操は秘蔵の酒を用意して、約束はないが夏侯惇の部屋を訪れた。すまなかったと謝る自分に夏侯惇は拗ねたままだろう。だが無理にでも口づければそのまま押し倒して甘い時間を過ごせば機嫌も直る、そんなめくるめく妄想を頭に描きながら。

「なに?居ないだと?」

曹操の不機嫌な声が静かな廊下に響く。従者が夏侯惇が部屋に不在であることを告げたのだ。曹操は大きく肩すかしを食らい、ひどく機嫌が悪くなる。しかし、夜遊びでもなかろうにどこへ行ったのだろう。夏侯惇が夜な夜な出かける場所など見当もつかず、曹操は仕方なくその場を引き返した。

翌日も、練兵の場に夏侯惇の姿はない。
夏侯淵を見つけ、夏侯惇の居場所を尋ねてみた。

「ああ、惇兄なら西の森に出没するようになった賊を片付けに行くとかで昨日の夜から出かけていったようだよ」

淵の言葉に曹操は驚きを隠せない。

「何、儂に黙ってか」

曹操の言葉に淵も驚く。

「えー、殿に何も言ってないんです?まあ今は戦の時期じゃないけど…惇兄どうしたんだろ?」

曹操はさすがに焦りを感じた。自分から夏侯惇が黙って離れていくなどあり得ないことだ。戻ってこないということはないだろうが、しかしその自信も今は揺らいでいた。






夕刻、西の森にて。

夏侯惇は小さな天幕を張り、野宿をしていた。ここから離れた集落に話を聞きに行くと、農作物を荒らしたり、家のものを持ち出したり、娘をかどかわしたりとどうしようもない輩がいるらしい。黄巾の残党の落ちぶれた者たちだろうか、とにかく迷惑な話だ。

そんな奴らなど部下にでも命じておけばすぐに片付く話だった。しかしここ最近闘いもなく、練兵や鍛錬に明け暮れて腕が鈍るような気がしていた。むやみに血を流したいわけではないが実戦の興奮が懐かしいのは確かだ。それに、曹操のことにひどく立腹しているのもひとつ理由だった。山賊相手に拳で語り合えば少しは気が晴れるのではないかというわけだ。

曹操の執務室を出て、兵達からこの話を聞いたときに脊髄反射で馬に乗り駈け出してきたにだった。

夏侯惇はたき火の火をじっと眺めている。戦場で、こうして火を囲んで曹操と話をしたことを思い出す。その時の曹操は雄弁で、自分の大いなる野望を語ってくれた。それについて行くことを決心したのだ。その時の曹操の姿に憧憬を抱いたことを思い出し、夏侯惇はいやいやと頭を振る。

今は関羽が一番だし、女遊びにうつつを抜かし、全く自分に構ってくれないではないか。しかし、いまや関羽を始め、曹操の鋭い見立てにより優秀な人材がどんどん集っている。そんな中で隻眼であるという武将として大きく不利な自分がいつまで傍に置いてもらえるのか。

そう思うと、関羽への曹操の執着は当たり前のような気がしたし、それを責めた自分は捨てられることが怖かったのではないかと思えた。それに気がついたら、悲しいが少し気分が楽になった。曹操への怒りよりも自分の身の哀れさに残る片方の目から涙がにじんだ。

「いかんな、こんなことでは」

夏侯惇は何か吹っ切れたように自嘲する。曹操の傍にいられなくなるその時までせめて戦って死のう、そう思った。

半ば逃げ出すようにここに来たが、賊は片付けて帰ろうと気持ちを新にし、火を消して天幕へ入った。夜の森は冷え込む。夏侯惇は小さな毛布にくるまるように体を丸めた。

それから半刻ほどしただろうか、眠りに落ちかけていた夏侯惇は天幕の周りに何か気配を感じてそっと体を起こした。辺りは闇に包まれている。獣ではない、足音からそれは人間だち分かる。

「来たか…!」

夏侯惇は武器を手にし、天幕を出ようと腰を上げた。その時、天幕に侵入する者がいた。

「何者だ!!」

侵入者に飛びかかろうとしたその時、腕を掴まれ、抑え込まれてしまう。

「惇、儂だ」

その声に夏侯惇は驚きを隠せない。

「も、孟徳っ!?」

夏侯惇は抵抗を止め、侵入者の顔を見た。闇の中に浮かび上がる曹操の顔。不意に抱き寄せられ、唇を奪われた。

「…!」

「惇、すまんかった」

そのまま抱きしめられ、夏侯惇は何も言えずにいる。

「お主の気持ちを知らずひどいことをした」

曹操は夏侯惇の髪を優しく撫でる。夏侯惇は無言のまま、下を向いている。夜の中にその顔はひどく影を射して。

「俺は…捨てられるのかと…思った」

言葉を選ぶように夏侯惇が話始める。

「関羽のことも、お前が関羽に執着することが嫌だったから」

「そうだな、分かっておった」

曹操はまた夏侯惇を強く抱く。

「関羽の武は欲しい。だが、お主のことは格別なのじゃ。お主が離れて気づかされたわ。いつも傍にいてくれたお主が居ない寂しさを」

「ははは、まだ一晩しか経ってないだろう」

夏侯惇が小さく笑う。

「一晩が百の夜にも感じられたわ。もう儂の傍を離れるでないぞ。お主が好きなのだ」

「孟徳…」

夏侯惇は曹操の顔を見つめる。その真剣なまなざしに嘘はない。俺も、と言いかけたその時。

「もう我慢ならぬ」

曹操が夏侯惇の装備を解く。夏侯惇の胸が露わになる。あまりのことに驚いて夏侯惇は曹操と自分の胸元を交互に見直している。

「惇、ここで抱くぞ」

「ば、馬鹿かお前!ここは一応敵地なんだぞ!」

夏侯惇が我に返って抵抗を始める。曹操は負けじと夏侯惇の服を脱がしにかかる。

「馬鹿、やっぱりお前は信じられぬ!」

「惇、恥ずかしがるでない。愛し合おう」

二人がもみ合ううちに天幕の外が明るくなってきた。そして何だか熱い。

「ちょ…外、なんか燃えてないか??」

「なに?」

辺りを見回すと天幕の外が明るい。橙色の光が揺らめいている。そして焦げ臭い匂いが鼻を突く。

「しまった、火か!」

夏侯惇は外の様子を伺おうと天幕から顔を出したところで、数人の男に襲いかかられた。獲物が出てきたところを捕えるために用意された縄で手際よく縛られてしまう。

「くそ…貴様ら…!!」

天幕が焼け落ちる。曹操は首尾よく逃げ出したようだ。あの時、あんなことされなければ…夏侯惇は曹操を恨んだが仕方ないとため息をついた。

「さて」

10人ほどの男達が夏侯惇を囲んでいる。品定めをするように夏侯惇の体を上から下まで眺めまわしている。

「俺たちのことを嗅ぎまわってたやつだな」

「お着換え中だったのか?」

夏侯惇の姿を見て一人が言う。周りの者たちは声を上げて笑う。夏侯惇の胸元ははだけたままだ。曹操に無理やり脱がされかかったそのままの姿だった。夏侯惇はチッと舌を鳴らした。

「しかし、一人か?もう一人気配がしたようだが」

「まあいい、服装からして軍のお偉いさんのようだ」

賊の首領と見える男が歩み出て、夏侯惇の周りを歩きながらぼさびさの口髭をしごいている。

「隻眼か…確か曹軍の大将の右腕に隻眼の猛将軍がいると聞いたが?」

首領の男は夏侯惇の顔を下から覗きこんだ。その顔をじっと眺めている。夏侯惇はその顔を睨み返す。

「その面構え、お前がそうだな」

「なんだって、そりゃあいい人質が出来たじゃねえか!」

「身代金ふんだくれるぞ!」

男達がにわかに騒ぎ出す。

「無理だな」

夏侯惇が短く言う。

「も…曹操が俺など気に留めるものか。軍には優秀な将が多くいる。片目の将など必要とされぬ」

「それでお前はこんなところへ俺達を退治するために派遣されたのか?」

首領の言葉には憐れみがあった。

「大将の為に戦って片目を無くしたのにあんたも可哀想だな」

「いや、俺はそうは思わぬ。おれは曹操の為に戦った、それでいい。もう片方の目がつぶされようと、手足がもがれようと戦い続けるのみ」

夏侯惇の言葉に皆が押し黙る。

「あんた、そんなにまで忠義を尽くしているのにひでえ大将だな」

「そうだ、もうやめちまえよ」

男達は口ぐちに夏侯惇への同情を示す。

「あ、いや、もうと…曹操は俺の命を賭ける勝ちのある男なんだ、まあそう悪く言ってくれるな」

夏侯惇は困った顔だ。首領はそれを聞いて涙を流し始めた。

「と、ところでお前たちはなぜ賊なんぞやっているんだ?」

夏侯惇が話題を変えようと話を振った。首領は涙を拭いながら鼻水をすすり上げる。

「」

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