覇道をゆく者
□花枕
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長かった冬が終わり、春の気配を花や大地にも感じられるようになった。日は一日、一日と長くなり、陽光は大地を照らし、農地に活気が戻る。人々の心もどこか穏やかであった。この日も晴天で山は春霞がたなびいている。平和な日である。
しかし、宮中は穏やかではなかった。曹操が頭を抱え、不機嫌な顔で従者たちを困らせていた。曹操はいわゆる頭痛持ちであった。年若い頃は戦に明け暮れ、気にする暇もなかったからか大した問題ではなかった。しかし、実権は息子に譲り、事実上引退の身である今、書物のまとめや事務的作業に明け暮れる毎日で頭痛も日増しに酷く感じられるようになった。加齢のせいもあろうかと自嘲してみるが、一向に収まりをみせぬ痛みに気持ちは荒み、内心気弱になっていた。
昨夜も頭の奥から響くような鈍痛に眠れず、機嫌が悪い。そんな夜が数日続いたため曹操は部屋に篭りきりで寝台の上で一日を過ごしていた。そうなると酒を飲む気も詩に興じる気も起きず、鬱憤が溜まる一方である。若い美姫を呼んでみたものの、その気にならずそのまま帰らせた。
「華佗は、華佗はおらぬか‼」
曹操の侍医である華佗は優秀な医術者であったが今は遠方の実家に帰っている。曹操から逃げたとの噂もあるが、従者たちはいい迷惑である。
「華佗は帰らぬと言っておるようで…代わりに別の医者を…」
従者の言葉になんとしても連れ戻せと曹操は怒鳴った。そんなことで気が紛れるわけもなく、己の怒号にまた頭痛が酷くなるのを感じた。
「孟徳、いるか」
久しぶりに聞く声に曹操は振り向く。そこには夏侯惇の姿があった。今や軍の最高位である大将軍の地位に着き、忙しい毎日を送っている。
「久しぶりだな、惇」
「どうした、ひどい顔だな。また頭痛か?」
夏侯惇が寝台の脇に腰掛け、曹操の顔を覗き込む。己の情けない姿を見せたくなくて曹操は苦い表情を浮かべた。
「何か用か?」
曹操は務めて感情を出さないようにする。夏侯惇は少し考えた後、不意に立ち上がった。窓を開け放ち、外の空気を吸い込む。
「用事があったが忘れたわ」
そう言って曹操の方を向いた。
「なあ、外に行かないか。花を見に行こう」
夏侯惇の言葉に曹操は何も言えず、ただ下を向く。寝不足に偏頭痛、そんな状態で外に出かけても、と躊躇いがあった。
曹操が動かぬ様子を見て、夏侯惇は曹操の手を引いた。
「さあ、外は暖かいし、天気も良い。付き合ってくれ」
夏侯惇の笑顔に負け、曹操は寝台から立ち上がった。しばらく寝ていたため、立ちくらみしそうになるのを何とか耐え、足を踏みしめる。
夏侯惇が箪笥から着物を出してくる。曹操の気が変わらぬうちにと外出の準備を手早く進めている。曹操はそんな夏侯惇を見て頭痛は治らないものの、知らず気分が良くなっていることに気がついた。
顔を洗い、髪を整え軽装のいで立ちが整った。顔色は優れないが、人前に出られる姿になった曹操を夏侯惇は宮殿の裏に誘う。
宮殿の裏には小高い山がある。夏侯惇は山路を登り始める。
「孟徳、つらいならおぶってやるぞ」
夏侯惇の言葉に曹操はジロリとその顔を睨む。
「ふん、年寄り扱いするでない」
「無理はするなよ」
夏侯惇は優しい笑みを浮かべる。
二人は緩やかな坂道を並んでゆっくりと歩いてゆく。
木々が芽吹き始め、山に生気が戻り始めるのが感じられる。いつの間にか冬が終わったのかと曹操は時の早さの無情さを思った。
隣を歩く夏侯惇は曹操に合わせ、ゆっくりと足を進めている。二人は無言だが、この散歩を楽しんでいた。
「しかし惇よ、花などどこにあるのだ?」
山の頂上に差し掛かる頃、ずっと疑問に思っていたことを曹操が夏侯惇に尋ねた。山の自然から春の息吹が感じられ、それを眺める楽しみはあるが、ここに来るまで花など見当たらなかった。夏侯惇は何を見せようというのか。
「まあ、そう焦るな孟徳」
夏侯惇は何やら一人で楽しげな表情だ。そのまま二人は頂上に辿り着いた。
「ここだ、ここからよく見える」
そう言って、夏侯惇は子供のように曹操の手を引いて行く。夏侯惇が言うままに、曹操が振り返ると目下には小さく宮殿が見える。その向こうには桜の木が花を咲かせ、薄紅の絨毯を敷き詰めたようだ。
「ほう、これは…」
曹操は思わず溜め息をもらした。花の絨毯の向こうには豊かな平原が広がる。しばらく二人、その景色を眺めていた。
桜の下では人びとが宴に興じているようだ。
「皆幸せそうじゃないか」
夏侯惇がそれを眺めながら感慨深げに呟く。
「そうだな」
曹操もそれだけ呟き、空を見上げた。空は高く、何処までも透き通るような青さだ。白い雲がゆっくりと流れ去ってゆく。
「なかなかの趣向だな、惇。こんな花見も一興だ」
曹操は満足げに夏侯惇に微笑みかける。いつの間にか頭痛は消えていた。そして心は穏やかだ。
「もう少し歩こう」
夏侯惇は曹操の手を取り歩き始めた。山の裏側を下る道だ。しばらくすると、小さな広場に出た。その先には見事な桜が美しく咲き誇っている。風に揺れ、花びらが舞い散った。二人は思わず息を呑む。
「美しいな」
曹操が無心で呟いた。ああ、と夏侯惇も短く応える。
「少し休むか」
夏侯惇に導かれ、曹操は桜の木の下に腰を下ろした。夏侯惇も寄り添うように側に腰を降ろす。
下からも見事な枝ぶりを眺めることが出来る。
「具合はどうだ?無理はしてないか」
夏侯惇が気遣いの声をかける。
「うむ、痛みはもうない。久しぶりに晴れ晴れとした気分だ」
曹操の穏やかな表情に夏侯惇は安堵した。幾分か顔色も良いようだ。
「酒でも持ってくれば良かったか」
「お主が居ればそれでよい」
曹操は夏侯惇に口づけた。夏侯惇もそれに応える。
「惇、膝を貸してくれぬか」
曹操はそう言って夏侯惇の伸ばした太ももを枕に横になった。
「ここで昼寝か?」
夏侯惇は驚いた声を上げるが、曹操の目の下のくまを見つけ、そのまま寝かせてやることにした。恐らくずいぶんと眠れぬ夜が続いたのだろう、夏侯惇は出来るだけ休ませてやりたいと思った。
「女の膝枕のように寝心地は良くないがな、気の済むまで休めよ」
夏侯惇は曹操の手にその手を重ねる。
「うむ」
曹操は満足そうな表情で目を閉じた。少しして、安らかな寝息が聞こえ始める。夏侯惇はその穏やかな寝顔を眺めている。曹操の髪に白いものが混じっている。壮年に近いが実際の年齢より随分若く見える。しかし、やはり年は取るものだと夏侯惇は静かに笑った。そういえば、自分も年を取った。
曹操の側に仕えてここまできた。いつ迄共に歩めるだろうかと思う。曹操が自分の全てだった。側に居られるだけで満たされる思いだった。彼が覇道を成し遂げ、築いた道を皆が歩んでいこうとしている。曹操の覇道を切り拓くため、戦ってきた。そして目的は達成した。それでも側に居たいと願う。やはり自分はどうしようもなく曹孟徳が好きなのだと夏侯惇は自嘲した。
桜の花びらが風に舞い、ふわりふわり舞い落ちる。曹操を起こさぬよう夏侯惇はその肩に落ちた花びらを払う。花に埋れてしまわないよいに、何となくそう思いながら。
気がつけば、夏侯惇は眠りに落ちていた。ふと、心地よい香りに気がついて目を開けると曹操の肩に頭を預け、居眠りをしていたことに気がついた。曹操の着物から柔らかな香がふわりと香っている。
「す、すまん。いつの間にか俺の方が眠っていた」
夏侯惇は恥ずかしげに頭をかく。曹操はそれを見てふっと笑う。
「よい、久しぶりによく眠れたわ」
曹操は満足げだ。夏侯惇もその顔を見て嬉しくなった。
「惇、これからも儂と共に居てくれるか」
曹操が夏侯惇を見つめ、呟くように言う。夏侯惇は力ないその言葉に驚く。
「何を急に」
「儂の覇道は果たされた。儂の役割は終わった。あとは子桓が、民が志を継ぎ次代を担うだろう」
夏侯惇は曹操の言葉に無言で耳を傾けている。
「お主には儂を必要とする理由はない」
夏侯惇は曹操の肩を優しく抱いた。そして、しばらく押し黙っていたが、ゆっくりと話し始めた。
「俺は、曹孟徳という人間に惚れている。覇道が果たされようがそれで何かが変わることはない」
夏侯惇の声が震える。
「お前こそ、もう俺を必要としなくなるのかと…‼」
その先は涙に流され、言葉に出来なかった。
曹操は夏侯惇の背を強く抱いた。そしてなだめるようにその背を優しくさする。
「儂にはお前が必要だ。これからもずっと側に居てくれないか」
曹操の言葉に夏侯惇は無言で頷き、その確かな答えに曹操の体を強く抱いた。
「儂は隠居しようと思う」
「ほう」
二人は曹操の寝所で酒を酌み交わしている。
「隠居して何をするんだ?」
「そうだな、日がな一日碁を打つとしよう」
はあ、と夏侯惇が呆れた声を出す。
「お主にも時々は勝たせてやらぬとな」
「フン、言っていろ」
夏侯惇はそう言いながら嬉しそうに笑った。窓から風に運ばれた桜の花弁がふわりと舞った。