覇道をゆく者
□大事なもの
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思えば、昨日は飲みすぎた。
曹操の計らいで宴が催され、日ごろの働きにと酒も食事も大盤振る舞いだった。
桜が咲くには少し早いが、戦を忘れたその場の楽しげな雰囲気に夏侯惇は普段の節制を忘れ、つい飲みすぎてしまったのだ。
張遼に自室まで送ってもらった覚えがある。曹操が関羽に酌をしていたが張遼に背負われる夏侯惇を見て少し不機嫌になったのは誰も知らない。
「ふあ…」
寝台から思い体を起こす。酒宴は昨日で終わりだ。今日からまた戦に向けた鍛錬の日々が始まる。飲みすぎたせいでまだ頭が痛い。しかし、このままではならんと夏侯惇は自分を奮い起す。
昨日は宴会から抜けてそのまま寝台で寝入ってしまった。着物もしわだらけ、頭もぐしゃぐしゃだ。夏侯惇は湯浴みに行くことにした。
朝の浴場は誰もいない。
体をさっと流すと気分もすっきりしてきた。気持ちよく新しい着物に着替え、鏡の前に立つ。
鏡は、嫌いだ。しかし身なりを整えるには見ないわけにはいかない。
「髭が伸びておるな」
夏侯惇は顎鬚をさする。数日職務が忙しく落ち着いて顔を見ることがなかったこともあり、髭の手入れがおざなりになっていたことに気づく。
愛用の小刀を手に取る。髭だけでなく果物をむいたりひもを切ったり何にでも使っているものだ。普段からこれの手入れはしているので切れ味も抜群だ。
慣れた手つきで髭を整えていく。
しかし、なんとなく上手くいかない。
「むう…」
夏侯惇は低く唸る。まだ酒が抜けていないのだろうか、そう思いながら小刀を滑らせる。そして・・・
「はっ!!!」
ぼとりと、落ちる毛の束。
夏侯惇はあわてて鏡を見る。やってしまった。
「・・・・・!!!!くっそ…!」
右側の口髭が綺麗に剃り落されている。夏侯惇は情けない顔で鏡を見る。
「こんな間抜けな顔で練兵など出来ぬな」
まさに覆水盆に返らず。落ちた髭も戻らない。
夏侯惇は、はあ、と大きくため息をつき諦めてもう片方の髭も綺麗に剃り落した。しかし、どうもバランスが悪い。
「顎も剃るか…」
顎だけ残しておくのもなんだか手入れができていない感じがする。仕方なく顔の下半分の毛をすべて剃ることにした。
「ずいぶんすっきりしたな…」
夏侯惇は顎を撫でながら独りごちる。
鏡を覗くとそこには年齢よりもずいぶん若く見える自分がいる、むしろ自分でないようだ。
しばらく恰好が悪いがなに、また戦ともなれば髭などそのままにしておけばすぐ伸びるわ、そんな風に自分を慰めてとりあえず自室に戻ることにした。
途中、廊下で郭嘉とすれ違った。挨拶をしたが、無視された揚句に怪訝な顔をして振り返られた。なんだあいつは、と夏侯惇は少し腹を立てながら部屋へ戻った。
「よし、今日も気合いを入れるか!」
練兵のため、動きやすい服に着替え外へ向かうことにする。道すがらすれ違う者が皆振り返る。驚いたり、ぼうっと夏侯惇を見つめて何も言わない。
「何だ、そんなに髭がないのがおかしいのか」
夏侯惇はだんだん腹が立ってきた。将軍たちは若くとも髭を蓄える。それが他の者に舐められないためでもある。髭は強い男の象徴でもある。夏侯惇は朝の失敗に舌打ちした。
しかし、そんなにおかしいのだろうか…?
急に不安になってくる。
「夏侯惇の旦那っ、昨日は楽しかったですね・・・!!!???」
典偉が後ろから回り込むようにして夏侯惇に話しかけてきたが、その動きが止まった。
「なんだ、言いたいことがあるなら言えよ」
夏侯惇の脅しのような響きの言葉に典偉は困って頭をかいている。
「い、いや、なんかっ、若いですね旦那。
いやしかし若いっていうか…」
典偉がもじもじしている。
夏侯惇は足をドンと踏み鳴らす。
「威厳がないとでもいうか!」
夏侯惇の剣幕に典偉はこれはまずいと会釈して足早に立ち去って行った。夏侯惇からしばらく離れた後、柱に背を寄せて典偉は冷や汗をぬぐう。
「威厳とか、そういう問題じゃねえですよ旦那…」
これから起こるであろう騒動に典偉は夏侯惇に心から同情した。
「まったくあいつまで…」
夏侯惇は自分が可愛がっていた典偉にまでよくわからない態度を取られたことで余計に不満が募る。それから練兵の場まで好奇の目に晒され続けて夏侯惇の不機嫌はすっかり最大値まで上昇していた。
「あっ、夏侯将軍…!!」
兵士たちは整列して夏侯惇の到着を待っていた。そして皆、夏侯惇の顔に視線が集中している。
「なんだ、お前たち」
夏侯惇の異様な不機嫌オーラに兵達は何も言えない。
「そろそろ暑くなるころだからすっきりしたのだ、何か文句があるものはいるか」
よくわからない説明だと夏侯惇は自分でも思った。
「よし、では今日も訓練に励め!!」
「はい!!」
兵達の声がひときわ高い。
「な、なんだお前たち、気炎万丈だな」
夏侯惇も驚くほどの気合い。皆真剣さが違う。先ほどまでの不機嫌も少し和らいで夏侯惇は嬉しくなった。
「…だって将軍が…」
「…髭ないとあんなに若かったのか」
「…若い…よな…」
「…かわいい…」
兵達の視線がおかしいことに気づかず夏侯惇は間をぬってねぎらいの声をかけていく。
「夏侯惇殿、気分はすっかり良いようですな」
背後から張遼が声をかける。夏侯惇は振り返り、昨日の礼を述べた。
「おお、張遼。昨日はすまなかったな。助かったよ。あのままだと外で寝ているところだった」
夏侯惇がにこにこと話かけている。張遼は動きが止まったままだ。その様子に気がついて夏侯惇は顎を撫でながらいきさつを説明しようとする。
「あ、これな、暑いから…」
張遼の目が怖い。
夏侯惇は息をのむ。
「夏侯惇殿…あなたは何という…」
張遼が夏侯惇の手を引く。建物の陰まで強引に引っ張られてきたところで夏侯惇はその手を振り払った。
「な、なんなんだよっ」
張遼は急に振り向き、夏侯惇に迫る。ハナイキが荒い。
「夏侯惇殿!!たまりませぬっ!!」
張遼が夏侯惇に抱きつく。
「でええええいっ、よさんか張遼!!」
昨日の恩も忘れ、本気で引きはがしにかかる夏侯惇。しかし張遼もさすが鬼神と言われた男で、夏侯惇の腰にまわしたその手を放そうとしない。
「その顔、反則なり」
「うるさい、お前までからかうのか!!」
「ち、違う、からかってなど…!」
押し問答が続く。張遼は曹操殿は置いて二人で逃げましょうと言いだす。昨日の酒が残っているのかと夏侯惇は本気で疑いたくなる。
その争い(?)を止めたのは関羽だった。
張遼の体を失礼がない程度に夏侯惇から引き離した。
「どうされたのだ、張遼殿。ご乱心か?」
関羽がいたって冷静に佇んでいる。夏侯惇は今一番見たくない人間に出会ってしまった嫌悪感と助けてもらった礼を言わねばという義理の心で揺れた。
「す、すまんな…」
結果、聞こえない程度の声でつぶやいた。しかしこいつの髭は前から煩わしいと思っていたが、今は一層煩わしく思える、なぜだ、と夏侯惇は関羽の美しく豊かな髭を眺めながら考えていた。
答えは簡単だ。自分には髭がない。なのにこいつには髭がある、余りあるのだ。またひとつ関羽を憎む理由が出来てしまった。
夏侯惇が鋭い目つきで関羽をにらむ。助けてもらったとはいえ、こいつは敵だ。
「ところで夏侯惇殿」
関羽が夏侯惇に向き直る。その目は真剣そのもので一瞬圧倒される。
「な、なんだ」
夏侯惇は負けじと思い、とりあえず強がってそれだけ答える。こいつも俺の顔を馬鹿にするのか…
「今日は一段と、その可愛らしくておられる」
関羽がクソ真面目な顔で言う。夏侯惇は怒っていいのか悪いのか分からなかったが、やはり男子のメンツに可愛いなどとふざけている。
「貴様、ここで勝負をつけてやってもいいんだぞ…!」
夏侯惇が関羽の顔を見上げて睨み付ける。関羽は思わず目をそらす。勝った、勝ったのか?夏侯惇は内心そう思い嬉しくなったが、気を抜いたら負けとそのまま睨みを利かせる。
「もう、我慢できませぬ…!!」
「は??」
関羽にいきなり抱き締められた。夏侯惇は驚いて口をパクパクしている。
「夏侯惇殿…ともに参りましょう」
どこへだ??そんなことを聞く気もないが、我に返った夏侯惇はその身を引きはがそうとする。関羽は馬鹿力だ。びくともしない。背後で張遼が何か言っている。
「は…離せ…!!」
夏侯惇は胸を圧迫されて息が詰まる。
やばい、落ちる・・・!そう思った瞬間だった。
「惇を離すのだ、関羽」
威厳のある静かな声、毅然とした態度、曹操がこちらに歩み寄ってくる。
「これは…曹操殿」
関羽は夏侯惇をゆっくり離した。夏侯惇は関羽と張遼から距離を取り、警戒している。
「関羽よ、お主には特別に目をかけておる。どんなものでも欲しいものは与えるつもりだ。しかし、惇だけは貴殿にもやれんな」
「孟徳…!!」
恥ずかしい台詞だったが、今はただ嬉しい。
「張遼、御主にも言っておくぞ」
「…は…!!」
張遼は頭を下げる。
「ときに惇よ」
曹操が夏侯惇のほうに向きなおる。
「なんじゃその顔は」
曹操にまで言われて夏侯惇は悲しくなった。顔を伏せて顎を手で覆う。
朝の自分を呪った。こんなことなら片方だけでも髭を残しておけばよかったのか。
「お前は分かっておらん、その顔がどれだけ皆の興を引くのか」
曹操は夏侯惇の頬にそっと手を伸ばす。
「おかしいっていいたいのだろう…分かっている。今朝から皆におかしな顔をされて…」
夏侯惇がふいと横を向きながら言う。曹操はふと笑う。
「お主も鈍感だのう。まあそこが可愛いのだが」
「?」
「いろいろあって疲れただろう、わしの部屋で茶でも飲め」
曹操はそういいながら夏侯惇を連れて行ってしまった。
張遼と関羽はそんな二人の背を見守っていた。
「ずるいな…」
「全くだ」
二人はぼそりと文句を言う。
曹操直々に入れてくれた温かい茶をすすりながら夏侯惇はやっと落ち着いた気分になっていた。
「孟徳、ありがとう」
そう言って控え目な笑顔を向ける夏侯惇の唇を曹操はそっとふさいだ。
「こんな顔を見せられたら、ほってはおかれんぞ」
その頬を優しく撫でる。
「なんで…」
「主の顔、可愛すぎるのじゃ。髭があるときは男の色香があっていいのだが、今の顔では…ぬう、もう儂の傍を離れてはならんぞ」
曹操に抱きしめられ、夏侯惇は頬を紅く染めた。そしてそっとその背に手をまわした。
「また髭を生やすのだぞ」
「あ、ああ」
年下の従兄の幼き面影をその顔に見て曹操は優しい顔になり、再び夏侯惇に口づけた。