覇道をゆく者
□ふたつの想い
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惇を此の手に抱きたい。
肌に触れたい。
この曹孟徳のものだという証を刻み付けたい。
いい声で鳴かせたい。
ああ、それが出来たらどんなに幸せだろうか。
曹操はめくるめく妄想を繰り広げていて郭嘉が呼びかける声も全く耳に入らないようだ。
「…殿‼曹操殿っ!」
郭嘉の大きな声にやっと曹操が現実世界に戻ってきたようだ。
「そんなに深刻な顔をして、どうせ別のことを考えていたのでしょう」
郭嘉の苦言を聞き流し、曹操は提示された案を認める印を押した。何か言いたそうな郭嘉を曹操はなだめながら退席の用意を始めている。
「よい、お主の言うことはいつも的確だからな。信用しておる」
郭嘉ははあ、と小さく溜息をつく。
「余計な世話かと思いますが、叶わぬ色恋のことですかな?」
誰が相手とは聞かないが郭嘉は気がついている。というか、むしろ割と側近たちは気がついている。軍議の時間のあの空気、そういったことに鈍感な張遼でさえ今日も当てられましたとボヤくくらいだ。
夏候惇の態度が、分かりやすいのだ。思春期の少女かというくらいに曹操を意識しているのが分かる。中には成就すればいいと何かと影ながら応援するものまで出る始末だ。
「相思相愛なのだが、一線を越えられぬのだ。どうしたものか」
曹操が窓の外に遠い目を向ける。郭嘉は合理主義な曹操がこれ程悩むのも珍しいと、人間らしい一面を垣間見た気がした。
「勢いで押し切れば持ち込めるのではないですか?将軍も満更でもないようですし。」
「あやつがあまりに純粋でな、流石の儂にもおいそれと手出し出来ぬのだ…ってなぜ夏候惇のことだと分かる⁈」
そりゃ分かりますよ…と郭嘉は半ば呆れながら部屋を出て行こうとしている。
「将軍に悪さして軍内部の雰囲気が悪くなるようなことはなさらないで下さいね。夏候将軍は部下の人望が厚いから、何かあったら士気に関わりますからな」
郭嘉は言いたいことを言って部屋を出て行った。
勢いで押し切る、か。無理矢理押し倒しても、きっと夏候惇は抵抗はしない。だが、そんな無理強いをして嬉しい訳はない。夏候惇とは酒を飲み交わし、語るだけでも充分に満たされる。それに彼の自分に対する忠義は余りあるほどだ。それ以上に望むことが浅ましく思えた。それに己の劣情が夏候惇を傷つけるのではないかと。
「全くどうしたものか…」
らしくない、そう自嘲して気を紛らわせる為に孫子を開くのだった。
「夏候惇殿、今夜はお暇かな」
珍しい人間に声を掛けられ、夏候惇は思わず微笑む。
「珍しいな、いつも一人で飲んでいるあんたが」
「たまには愚痴など言う相手が欲しいんですよ。では今夜」
そう言って張遼は去ってゆく。張遼は無口で何を考えているか読めない男だ。だが、戦場での武勲の話を引き出すとそれは面白い。淡々と自分を大きく見せることなく語るその逸話の数々は聞いていて興味をそそられる。
特定の誰かと仲が良いという感じもなく、それだけに今回誘われたのは嬉しいと夏候惇は思った。
夜、宿舎で夏候惇と張遼は酒を酌み交わしていた。張遼の戦の話は興味深い。この何を考えているか読めない顔のしたに熱い闘志が隠れているのは不思議だ。
「ところで、張遼。あんたはその、男と、その、したことはあるか?」
夏候惇が、酒でほろ酔いな顔を更に赤く染めながら言う。
張遼は質問の意味が分からず、夏候惇の顔を怪訝そうに見つめる。
「あっ、やや、何でもない!忘れてくれっ」
頭をガシガシかいて照れ臭そうにしている夏候惇の様子を見て、張遼はやっと質問の意味が分かった。
「ありますよ」
張遼はふっと笑う。夏候惇はその言葉に愛想笑いをやめて張遼を見つめる。
「あれは、もう随分と昔でしたが…私を慕う兵がおりましてな。私に自分を抱いて欲しいと言う」
張遼は淡々と話し始める。夏候惇は黙ってその話に耳を傾ける。
「ある夜、私は気の迷いからその若者を抱いた。大事な戦を前に気が昂ぶっていたのかもしれない」
「…」
「不思議なもので、男と言えど情を交えたら思慕が湧く。それから何度か夜を共にしました」
張遼が盃を空ける。夏候惇は新しい酒を黙って注いだ。
「男の身体は女の様に柔らかくも、しなやかでもない。しかし情があれば変わらぬものだ」
夏候惇は神妙な面持ちで話を聞いている。張遼は誰に語るでもない様子で話しを続ける。
「しかし、先の戦で失った。最後に私の腕の中で逝った」
張遼はふっと笑う。その鉄仮面の表情に寂寞の思いが宿るのを夏候惇は見た。若者は幸せだったに違いない。
「張遼…すまぬ、その、興味本意でこんな話を…」
申し訳なさそうに俯く夏候惇に張遼はまたいつもの無表情になり、向き合う。
「誘っているのですよね、夏候惇殿」
張遼の目に鋭い光が宿る。夏候惇はそれに気付き、身構えようとするが、死角を突いた張遼にあっさりと組み伏せられてしまった。
「ち、張遼⁈悪かった、あんたの哀しい思い出に触れるとは知らず…」
張遼は何やら勘違いした弁解をする夏候惇を下に見て、ニヤリと笑う。その滅多に見ることのない張遼の壮絶な笑顔に夏候惇の背筋に冷たいものが走る。
「殴りたくば殴れ」
観念したかのように夏候惇が抵抗をやめる。
「本当、にあなたは分かっていないのですね」
張遼の顔が迫る。
「二人きりで、こんな話をして、妙な気分になってもおかしくはないでしょう」
張遼の声がやけに甘ったるい。夏候惇は自分の置かれた立場をやっと認識して、また抵抗を始めた。
「ちょ、張遼!待て、そんなつもりはない。酒の席の話だろう」
夏候惇がジタバタ暴れている。しかし彼より小柄な張遼だがそれをものともせず平然といつもの無表情を決め込んでいる。
張遼は体術にも長けており、自分より体格が良い相手だろうが、的確に体重を掛けることで容易に組み敷くことが出来るのだ。
「大丈夫ですよ、男の扱いは初めてではないですから」
張遼が耳元で囁く。夏候惇はそれを聞いて、血の気が引いていく。
「ま、待ってくれ‼あんたのことは戦友として尊敬しているし嫌いじゃないが、それとこれとは違うし…‼」
夏候惇が必死に抵抗している。張遼は夏候惇の脇腹を撫で上げる。夏候惇はひ、と小さく息を飲む。
「最初は、そういうもんなんですよ。一度踏み越えてしまえばどうってことはない」
張遼の舌が首筋を這う。
「い、嫌だ‼頼む、やめてくれっ」
「何が嫌なんです?誘ったのはあなただ」
張遼の責めるような、冷たい声音。
「やめろ、誘ってなどいない!」
夏候惇は悲痛な声で訴える。何とか自由になった腕で拳を繰り出してみるが、力が入らずやすやすとかわされてしまう。
「曹操殿なら、良いのですか?」
張遼の問いに、曹操という名の響きに夏候惇は動きを止める。張遼はニヤリと口角を吊り上げて笑う。
「では、私を曹操殿と思えばよい。なんなら目隠しをして差し上げる」
「いや…ちょ…それは無理だからっ!」
夏候惇は一瞬何かを考えたようだが、すぐに思い直したようだ。
「も、孟徳っ…!」
夏候惇の消え入るような声に影が動いた。
「儂ならいいのか、惇」
聞き慣れた声に夏候惇は目をむいて声のした方を振り向く。そこにはニヤニヤと笑いを浮かべた曹操が立っていた。
「孟徳っ⁉」
そこにいる筈のない男の姿に夏候惇は驚きの表情だ。張遼は夏候惇から離れ、曹操に向き直る。
「これは殿、見苦しいところをお見せしましたな」
張遼が頭を下げる。
「ふ、お主気づいていたな」
曹操は不敵な笑みを浮かべた。
「さあ、何のことやら。では邪魔者は消えるとしましょう。」
張遼はそのまま部屋を出てゆこうとする。
「張遼!」
夏候惇が何か言いたげな顔をしている。張遼は振り向かない。
「戦火の中、共に生きてどれだけの時が過ごせるか…。後から気がつくのだ。失ったものの大きさは」
張遼はそれだけ言うと部屋を出て行った。
「張遼…あいつ、本当に好きだったんだな…」
夏候惇が小さく溜息をつく。若者の姿が自分にも重なり、余計に切なくなる。
曹操が座り込んでいる夏候惇の顔を覗き込む。
「だからこそ、後悔をせぬ様」
そして夏候惇に優しく口づけた。夏候惇もそれに応え、二人は濃密な口づけを交わす。
名残り惜しく離れる唇。
夏候惇はしばし曹操を見つめていたが、はっとして曹操に詰め寄る。
「孟徳、気づいていたなと言ったな。お前、いつから隠れてた?」
夏候惇は語気を荒げる。曹操は涼しい顔を崩さない。
「お主が張遼を誘うたときかの」
しれっと言う曹操に夏候惇は顔を真っ赤にして怒り出す。
「おまっ、俺はもう少しで手篭めにされるところだったんだぞ、何故見ていた‼」
「お主が張遼にほだされるのではないかと思ってな、それはそれで良いものが見れたかもしれぬな」
「…むうう、張遼も張遼だ、お前がいるのを知ってのこととは…!」
「ふむ、流石は張遼よ。儂が部屋に忍び込んだとき、瞬時に気配に気がつきおった。さすがは誉れ高き武将よな」
夏候惇は全く気がつかなかった自分に歯噛みする。
「それに比べて夏候惇よ、お前は鈍感だのう」
ニヤニヤ笑う曹操に夏候惇はうなだれるしかなかった。
「しかし、張遼に組み敷かれたお主の姿を見て流石に胸が焦がれたわ」
真面目な顔になり、夏候惇を見つめる曹操の瞳に夏候惇は息を飲んだ。静謐な、冷たい水をたたえた湖のような瞳に吸い込まれる思いだ。
黙り込んだ夏候惇の背を曹操が優しく抱く。
「儂は、お前がそうと言うまで待つつもりであった。しかし、もう待てぬ」
「孟徳…」
曹操は夏候惇を抱く腕に力を込めた。
「分かったのだ、お前が鈍感過ぎて何時迄待っても無理だと」
夏候惇は大人しく聞いていたが、なにっとばかりに曹操に食ってかかる。
「人を鈍いとは、どういう了見で…‼」
「では、お主から誘ってくれるのか、元譲」
急に優しい声で字を呼ばれ、夏候惇は顔を赤らめた。
「やはり、お前はずるい…」
夏候惇は曹操の唇におずおずと口づけた。
「すまんな、お主が嫌だと言っても今宵はやめてやらぬぞ」
耳元で囁かれ、夏候惇は無言で曹操の身体を抱きしめた。
夜はまだ始まったばかり。