覇道をゆく者

□夜のなか
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陣中が急に騒々しくなったことに気がつき、曹操は幕舎から外に出た。夕闇が迫っている。西の森では死体の臭いを求めてか鴉達がギャアギャアと不吉な鳴き声を上げている。

「と、殿っ‼」

夏候淵が真っ青な顔で駆けてくる。その後ろには傷を追った兵士が。

「何だ、どうした?」

曹操は唯ならぬ淵の様子に嫌な予感が胸をよぎるのを感じた。軍の頂点にある自分が取り乱すことはならない。

「惇兄が…惇兄が捕まった…‼」

最悪の知らせに曹操の胸が締め付けられる。捕えられたということはまだ命はある、しかし怪我をしているのではないか、相手が何者か。曹操の頭に数々の疑問がよぎり、的確な分析を重ねてゆく。淵に負けないくらい取り乱したい気持ちを抑え、曹操は一呼吸置いた。

「いきさつを聞かせよ。連れさったのは誰か」

曹操は激しく上下する淵の肩に手を置く。淵は曹操が落ち着き払っていることに苛立ちを覚えた。しかし、曹操は彼等の従兄弟としてではなくこの軍の最高指揮官として振舞っていることに気がつき、いくらか冷静さを取り戻した。

「私たちを庇い、夏候将軍は…‼呂布に…‼」

傷ついた兵が半泣きで訴える。曹操はその名を聞き、奥歯を噛み締める。最悪の上にも最悪の事態だ。呂布は所謂無法者。今は誰かに付き従っているが、そのうち牙を向くだろう。夏候惇の態度が気に入らないとあれば、交渉の材料であることも忘れ何をされるか分からない。

「分かった。今はもう陽が暮れる。今から救出の隊を出せば奴らの思う壺。明朝まで待つ。夏候惇の立場を知れば奴らとて馬鹿は考えまい」

曹操は遠くを見つめ、それだけ言うと踵を返した。

「殿‼俺が惇兄を助けにいく‼」

夏候淵が立ち上がり、曹操の背に叫ぶ。大切な兄貴分を放ってはおけない、曹操の待つという判断に従える訳がない。

「淵…」

曹操が振り向かぬまま、低い声で呟く。しばしの間、淵はその物言わぬ背に静かに燃える怒りの炎を見た。

「お前も、惇もかけがえのない将だ。軽率な行動は許さん」

曹操はそれだけ言うと、幕舎に戻ってゆく。淵は、曹操こそ一番夏候惇を心配し想っていることを知り、何も言えなかった。




陽が暮れて辺りはすっかり闇に包まれている。軍議が落ち着かない雰囲気で終わり、曹操は幕舎に戻る。

闇の中、剣を手に軽武装した曹操はそっと拠点を抜け、精鋭の兵を3名連れ馬を走らせる。





「ほれ、飲むがいい」

呂布の勧める盃から夏候惇は顔を背ける。

「俺の酒が飲めぬか」

呂布は気を悪くしたようだが、酒を煽り、夏候惇を見て笑う。

「一軍の将が、たかが兵卒の為に捕虜になるとはな」

呂布は夏候惇を品定めするように眺める。ここは呂布の寝所、夏候惇は寝台の上に軍装を解かれ腕の自由を奪われている。

装備を外される際に夏候惇が暴れたため、下着は引き裂かれた。今は部屋着を着せられ、ここにいる。

「おい、捕虜を捉えておくのは牢であろう。何故このようなところなのだ」

夏候惇が呂布を睨みつける。呂布は面白そうに口角を吊り上げて笑う。

「勇猛果敢な夏候将軍をこの目で見たかったのよ」

「もう見ただろう。牢へ送れ」

夏候惇は吐き捨てるように言う。

「牢は石が冷たく寒さが応えるぞ。それに、見張りのものがお前に何をするか分からぬからな」

呂布がニヤリと笑う。

「ふん、獣の集団だな。お前はその頭という訳だ」

呂布は盃に新しい酒を並々と注ぐ。呂布は、異国の血が混じっていると言われているが、その堀深い顔立ち、一回りは大きな体躯は確かにそれを思わせる。戦場で恐れられるのも分かるな、と夏候惇は思う。

「何だ、そんなに見つめるな。おかしな気分になるだろう」

呂布が盃を空け、夏候惇との距離を縮める。寝台が軋む。

「寄るな」

夏候惇が短く拒絶する。呂布が夏候惇に触れようとしたその時、夏候惇は自由な足で呂布に蹴りを繰り出す。

しかし、手を縛られた無理な体勢では力が入る訳もなく、呂布はやすやすと夏候惇の足首を掴み間合いを詰めた。

「くっ!」

呂布が夏候惇の顔を間近で眺める。酒臭い息がかかる。呂布の大きな手が足を撫でる。夏候惇は顔を露骨に顰めた。

「貴様、やめろ」

「ふん、嫌がられると燃えるタチでな」

呂布は夏候惇の頬に舌を這わせる。

「クソ、貴様っ‼気でも触れたか」

夏候惇が身体を捩って呂布から逃れようとするが呂布は夏候惇の身体にのしかかり自由を奪う。

「男というのに壮絶に色香よ」

夏候惇は唇を噛む。呂布の顔が迫る。唇が重なる、その瞬間。
窓の近くに殺気を感じ、呂布は夏候惇から離れる。窓は空き、簾変わりの布が夜風にたなびいている。

人影が動き、夏候惇の腕の束縛を解く。

「貴様、曹操‼」

呂布が吠える。夏候惇はそこに立つ人物に目を疑う。

「なっ…も、孟徳⁈」

夏候惇は驚きの余り、頓狂な声を出す。曹操は夏候惇の姿を見てニヤリと笑う。そして呂布に向き直り、睨みつけた。

「愚かな、いかに優秀な将とは言え大将自ら救出にくるとはな‼ちょうど良い、貴様の首貰い受けるぞ‼」

「惇、無事で良かった。さあ、帰るぞ」

曹操は夏候惇に微笑む。夏候惇は、それに心奪われ一瞬身じろぎしたが、直ぐに寝台から飛び起き、曹操の側に立つ。

「すまない、迷惑をかけた」

「この借りは後からしっかり返してもらうとしよう」

曹操の余裕ある笑みに夏候惇は未だ危機的状況であることを忘れ安堵する。

「貴様らここから無事に出られると思うてか」

護衛の駆けつける足音が響く。呂布の壮絶な笑み。

「貴様の目のまえで夏候惇を可愛がるのも一興よな」

呂布が二人に間合いを詰める。曹操は胸元から小瓶を取り出し呂布に投げる。瓶から液体が零れ、呂布の服を濡らす。

「何だこれは⁈」

呂布は液体の臭いを嗅ぎ、それが油だと気づく。

間髪入れず曹操が火種を投げ、呂布の身体から炎が上がる。

「ぐぁあああ!」

呂布の叫び声に駆けつけた兵たちは後ずさる。

「水だ、水‼」

その場は大わらわだ。曹操は夏候惇の手を取り、窓から飛び出す。窓の下には愛馬の姿。漆黒に闇に紛れ、静かに佇んでいる。曹操は夏候惇を乗せ、馬を駆る。

森に差し掛かるところで3騎が合流する。

「曹操様、やりましたな」

「うむ、後は任せた」

曹操と夏候惇の馬は森の中へ入ってゆく。呂布の追手が程なくして森を突き進み、囮の兵達を追い闇に消えさった。

「何とかやり過ごしたな」

曹操は森の奥へ馬を進める。前に座らせている夏候惇の身体が冷えきっていることに気づき、後ろから抱きしめる。

「も、孟徳…」

夏候惇は曹操の顔を見ようとしたが、恥ずかしくなり俯いた。

「あそこで夜明け前まで休むとしよう」

曹操は大きな口を開ける洞穴に馬を進めた。少し奥へ入り、天井が低くなったところで馬を降り、暫く先に進む。闇の中に一筋の光が見えた。洞穴の天井に穴が空き、月明かりかわ射し込んでいる。

二人は岩の上に腰を下ろした。曹操は薄手の毛布を夏候惇の肩にかけてやる。

しばしの沈黙。

「孟徳…お前は馬鹿者だ」

夏候惇がポツリと呟く。

「こんな敵地に一将軍を助けにくる大将がどこにいる?お前はもっと自分の立場を…」

夏候惇は曹操が優しく微笑んでいるその顔を見てそれ以上言えなくなった。何より嬉しかった。助けに来てくれたことが。それにそもそも自分が捕まったことが原因だ。それに気づき、夏候惇は俯いた。

「儂は、曹孟徳として、夏候元譲を救いに来たのだ。ま、多少の公私混同はあるがな」

三名の精鋭を連れて来たことを言っているのだろう。

「孟徳、ありがとう…」

夏候惇は消え入りそうな声で言う。曹操は夏候惇の肩を抱き寄せる。自分より小柄な曹操の温もりが心地よい。

「身体が冷えきっておるな」

夏候惇は薄手の部屋着を身につけているだけである。ここは風は防げるとは言えやはり気温は外よりは低い。

曹操は夏候惇に向き合い、その身体を抱いた。

「も、孟徳…」

「こうしていれば多少温かいだろう。…儂も温かい」

それを聞き、夏候惇はおずおずと曹操の身体に腕を回した。

洞穴内にぽうっと明かりがともる。小さな光が、ひとつ、ふたつと増えてゆき、その淡い青色の光は二人を優しく照らす。光苔だ。

「綺麗だな…」

「ああ…」

互いの体温が愛しく思えて二人は腕に少し力を込めた。

「ときに、元譲よ。呂布に何かされなんだか」

曹操の問に夏候惇はぴくりと反応する。

「いや、なにも」

短く答える。それに曹操は安堵して、夏候惇の背を優しく撫でた。

「お主に何かあれば、呂布を斬り殺しておったわ」

「…」

夏候惇は穏やかではないその言葉が嬉しく、曹操を強く抱いた。

洞穴に刺す光が明るくなってきた。夜明けが近い。

二人は洞穴から出て馬を走らせ、自陣へと道を急いだ。

朝起きたら夏候惇が帰ってきている。淵はその姿を見て感極まり夏候惇に抱きついた。皆も将軍の無事に湧いている。曹操はというと、何も知らぬ振りで職務を粛々と進めている。

「どうやって帰ってきたんだ⁈」

不思議そうに聞く淵に夏候惇は目線を曹操に向ける。淵は驚きキョトンとしていたが、満面の笑みを浮かべた。

「さすがは殿だ‼さあ、祝杯を上げるか」

「馬鹿者、さあ今日も鍛練だ‼」

夏候惇に頭を小突かれ、淵はバツが悪そうにしている。陣は落ち着きを取り戻したようだ。

孟徳、ありがとう。

夏候惇は指揮を取る曹操に心の中でもう一度呟いた。

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