覇道をゆく者

□恋になる日
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「今夜、久しぶりにどうだ?惇」

一日の練兵が終わり、周りを囲んでいた兵士達が散り散りに去った頃合いを見計らって曹操は夏候惇に声をかけた。

「おう、孟徳か。いい酒でも入ったのか?誘ってくれるなんて久しぶりだな。」

夏候惇は額の汗を拭いながら答える。練兵など、下士官に任せ自分は指示だけ出せばよい身分なのにわざわざ兵の中に入り自ら指導するあたりが夏候惇らしい。それ故に彼の兵たちは統率され、将の為に命をかける。

曹操はそんな年下の従兄弟を頼もしく、誇りに思う。彼の下には優秀な人材が集い始めていたが、旗揚げの時から付き従っている夏候惇には主従を超えた特別な信頼を寄せている。

「お主が他の者たちとの付き合いに忙しく、なかなか儂の相手をしてくれぬのだろう。今宵は来いよ」

曹操はそれだけ言うと夏候惇の返事を確認せず、踵を返した。

「ああ、後から行く」

夏候惇は曹操の背に声をかけ、少し嬉しそうにふ、と笑う。

昔は主従の関係などでなく、従兄弟として曹操を慕っていた。しかし、今は違う。彼は覇道を行く男だ。夏候惇は彼に従うと決めた。だから節度ある態度を示している。曹操はそんなことはくだらないと言うが、律儀な夏候惇は常に立場をわきまえていた。

曹操と二人、酒を酌み交わす時は少しだけ昔に戻れる気がする。一人の人間として彼に接することができる。夏候惇はその時間が好きだった。

水浴し、体の汗を流して部屋着に着替える。春先とはいえ夜はまだ冷えるので、上着を羽織り曹操の寝所に向かう。

「入るぞ」

夏候惇が中に入ると曹操は書き物の手を止め、彼を迎え入れる。

「仕事の最中じゃないのか」

夏候惇が気にして声をかける。

「お主との時間の方が大切じゃ」

曹操はそういいながら夏候惇の手に盃を持たせ、なみなみと酒を注いだ。

「おいおい、最初からそんな勢いでは…」

夏候惇はそう言いながらも嬉しそうだ。

「さ、今宵はどちらかが潰れるまで飲むとしよう」

曹操はにやりと笑う。
夏候惇もそれに応えて笑う。

最初は現在の戦況の話、それから最近の個人的な話題になり最後は昔話に花を咲かせる。

月が傾きかけるころ、夏候惇はすっかり出来上がって半分眠りの国へ誘われている状態だった。

「お主は弱いの」

曹操はそんな夏候惇を見て笑う。

「う、うるさい。孟徳が底なしなだなけだ…」

二人の周りには10本以上の酒瓶が空けられていた。確かに酒に強い曹操にどちらかというと直ぐに酔いが回る夏候惇がよくここまで付き合ったと言えよう。

「おい、惇。寝るなら寝台で寝よ」

曹操が夏候惇を抱きかかえる。夏候惇は力なく抵抗するがそのまま曹操の寝台に寝かせつけられた。

「孟徳…俺は帰って自分の宿舎で…」

半分呂律が回っていない。

「馬鹿を言うな。こんな状態で宿舎まで帰れるわけがなかろう」

曹操は呆れながら寝台に腰を降ろす。

「ここで寝るわけには…いかん…」

主人の寝台で寝るわけにいかないと頭では分かりながら夏候惇は深い眠りに落ちてゆく。

曹操はその横顔をしばらく眺めていた。
規則正しい寝息を立てて眠る夏候惇の姿は普段の猛々しい将としてではなく、年下の従兄弟として曹操の目に映る。このような無防備な姿、他の誰にも見せないでいて欲しい。ふと曹操の胸にそんな独占欲にも似た思いがよぎる。

曹操は眠る夏候惇の髪をそっと撫でた。長かった髪をバッサリ切って現れたときには少し驚いた。急にうっとおしくなったから切った、そう言っていた。

曹操は硬く張りのある夏候惇の髪を無心で触っていた。

「…ん…っ」

夏候惇がピクリと動いた。曹操は慌てて手を引っ込める。不快だったろうか、そう思い夏候惇の顔を覗き込む。夏候惇は気持ち良さそうに目を閉じて眠ったままだ。

曹操は安堵し、夏候惇の肩まで掛け布団をかけてやる。

「…んん…駄目だ…孟徳…」

夏候惇に不意に名前を呼ばれ、曹操は振り返る。

「…惇?」

曹操は夏候惇の顔をふたたび覗き込んだ。夏候惇は眉根を寄せ、厳しい表情だ。しかし、目蓋は閉じられている。

「夢でも見ているか、惇」

駄目だ、とは一体何の夢なのか、曹操の脳裏にやましい想像がよぎるが、自戒してそれを掻き消す。

「孟徳、危ないから…‼」

夏候惇が不意に飛び起き、曹操の肩を抱く。曹操は驚き、二人は暫く抱き合ったままでいた。

「あ…ん?孟徳…?」

やっと目を開けた夏候惇が曹操の顔を見る。少し困った顔の曹操と目が合い、さらに自分が曹操にしがみ付いているのに気が付いた。夏候惇は途端に顔を赤らめ、曹操から飛び退くように離れた。

曹操は至って冷静に笑っている。

「夢でも見ていたか、惇」

「あ、ああ…」

夏候惇は頭をガシガシかきながら胡座をかく。少しばつが悪そうな顔をしている。その顔が少年の頃の面影を映していることに曹操は微笑ましく思う。

「すまんな…昔の夢を見ていた」

夏候惇が気恥ずかしそうに下を向く。

「何の夢だ?」

曹操の問いに夏候惇はつまらない夢だという。

「儂が出てきたのにつまらないというか」

曹操が夏候惇を責めるように言う。もちろん本気で怒っている訳ではない。夢の話が気になって仕方ないだけだ。

「うむ…、お前が木に登る夢を見た」

夏候惇が観念したように話し始める。曹操は静かにそれを聞く。

「お前が高い木に登り始めて、俺は怖くてついていけなくて、それで戻ってきて欲しくて危ないと、叫んだ」

曹操は俯き加減にポツポツと語る夏候惇の顔をじっと見つめる。夏候惇はそれに気がつき、恥ずかしそうに視線を逸らす。

曹操は夏候惇の手を握った。夏候惇は驚き、曹操の顔を見る。

「あの時はな、お主にいいところを見せたかったのだ。それに主が下で見守っていたから出来た」

曹操の言葉に夏候惇は安心したように笑う。曹操の手に力が入る。

「それに、今は主も儂についてきてくれている。こんなに近くにな。これ程安心なことはないぞ」

夏候惇はそれを聞いて照れ臭く、ふっと笑う。

「そうだな、お前は昔から無茶苦茶ばかりだった。だが俺にはその全てが魅力だった。今はこうして共にあれるのだな」

「今は主の方が無茶をしおるがな。儂も気が気ではないぞ。身体ばかりでかくなったが、主は何時迄も可愛い弟だからな」

夏候惇は顔を赤らめる。

「なっ、まだ子供扱いか」

少し怒った口調で言う。曹操はその顔を見てにやにやしている。

そして夏候惇の頬に軽く口付けた。夏候惇は驚き、俯いた。

「な、何をする…俺は男だぞ、こういうのは…」

曹操はその様子を楽しんで眺めながら笑う。

「こういうのは、好いておるものにするものだろう?儂は主を好いておるから別段不自然ではあるまい」

曹操のその言葉に夏候惇は一瞬納得しそうになるが、思いとどまる


「いや、でもっ…」

曹操はまだ何か言おうとする夏候惇にずいと顔を近づける。

「…‼」

「嫌ならもうせぬ」

曹操が真面目な顔で言う。夏候惇は困った顔で唇を噛む。

「い、いや…別に嫌では…」

曹操はそんな夏候惇に軽く口付ける。驚きのため微動だに出来ない夏候惇を尻目に曹操はするりと布団に潜り込む。

「儂も随分と酔うてしもうたわ」

曹操の背を眺めながら、先ほどからの行為の意図が解らず夏候惇は困り顔だ。

「はよう布団に入れ。寒いぞ」

曹操は背を向けたまま夏候惇を促す。夏候惇はしぶしぶ横になる。

すっかり目が覚めて、酔いも吹き飛んだ夏候惇はしばらく眠れそうにない。背後では曹操の安らかな寝息が聞こえてくる。

そうだ、俺はこの曹孟徳を守り、彼のゆく道を切り拓くのだ。そう改めて決意し、少しの微睡みの後、深いねむりに落ちた。

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