中編

□至福のひととき
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「貴方、昨日の…!」
「あ、ああ…」
 夢が声をあげ、少年を指差す。少年は昨日のことに少しは罪悪感を感じているのか、俯く。
「昨日はすいませんでした!」
「…は?」
 夢から発せられた言葉が意外なものだったのであろう。少年はぽかんと口を開け、何とも情けない顔をしていた。
「私、あなたが一秒速かったなんて知らなくて…」
「ぶっ」
 夢の言葉を聞き、少年は盛大に吹いた。そして腹を抱えて笑い出す。
「お前、本気で言ってんの?」
 今度は夢がぽかんと口を開ける。これまた情けない表情だ。
「ふっ。お前、面白いな」
 そう言い、少年はまた笑うと、ベンチの端に寄った。どうやら、座れという意味らしい。しかし、夢はその意図がわからないらしく、相変わらずきょとんとした顔で突っ立っていた。夢は小説で登場人物の心情を読み解くのは得意だったが、現実では苦手なようだ。意識があるのかないのかわからないが。
「来い、って言ってんだけど?」
「え!? そうなんですか?」
 また少年は笑う。夢は慌てて少年の隣に座る。
「俺は小川守。あんたは?」
「えっ!? …え、と。朝日奈夢です」
「朝日奈、夢…?」
「?」
 夢の名前を聞くと少年はマジマジと夢の顔を見る。心なしか顔も近い。
「へぇ…」
 少年の真意はわからないが、そう呟いた。そして夢に手を差し伸ばす。どうやら、握手を求めているようだった。
「とにかくよろしく、夢」





*







 守も夢と同い年だった。そして、同じ読書好きで、好きな作家などの好みをとてもよく合っていた。そのため、二人は意気投合し、好きな本などの話で盛り上がっていた。昨日、本屋で睨み合っていた二人の姿からはとても想像できない。
 夢は少年と話をしながら、少年の顔をじっと見つめた。少年はとても無邪気に話しているため、そんな夢に気付きもしなかった。少年はなかなかの美形であった。顔の形がとてもよく整っていて羨ましいくらいだ。
 そして、夢はそんな少年の姿を七年前、公園で逢ったある少年の姿と重ねていた。そして、似ていると思った。少年の名前はもう忘れてしまった。けれど、守と同じように読書好きで、好きな作家の好みも合い、意気投合していた。そして、とても優しい少年だった。
 しかし、夢は昨日のことを思い出し、守は優しくないか、と思い、笑った。あの少年なら本を譲ってくれるはずだ、と。
「何笑ってんだよ、夢?」
「いや、別に?」
 守はそのあとも暫く探ってきたが夢が何度聞いても言わないため、諦めた。そしてまた、好きな本の話を始めるのだった。
 守は昨日会ったばかりで、しかも相手は女の子なのに名前で呼ぶという少し馴れ馴れしい部分があった。夢も守に名前で呼んでいいと言われたものの、少し抵抗があり、名字で呼ぶのだった。
 そして夢はまた守を見てその少年のことを思い出す。七年前、出逢った少年は夢の初恋の人だった。







*







 少年と出逢ったのはこの公園だった。夢がこのベンチで本を読んでいた。
「ねえ、何読んでるの?」
 一人の少年が夢に声をかけてくれた。
 その当時、夢は独りぼっちだった。一人で本を読んでいて、何考えているかわからない―――そう、クラスメイトに言われ、夢には友達がいなかった。そんな中、他校と言えども、夢にとっては初めてできた友達である少年のことを夢は未だに忘れない。否、忘れたりなどしない。
 少年も本が好きで、よく夢と好きな本を語り合っていた。
「この本、すっごく良いよ」
 ある時、少年が夢に一冊の本を貸してくれた。その本はいじめに関する本だった。夢は読んでいる途中で大泣きしてしまい、少年をとても困らせてしまった。
「ごめん、私…。この本、読めないよ…」
 いくら、少年が勧めてくれた本でも夢にとっては重すぎた。少年は当然、夢の事情なんか知るはずもなく、困ったに違いない。それでも、子供ながらになんとなく察してくれたのだろうか。少年は夢の背中を擦る。そして、その小説を音読し始めたのだった。
「少女は、闇の中にいました。そこは暗くて、暗くて、真っ暗でした。少女は苦しくて仕方なくて、泣きました」
 夢はそんな本を聞きたくなんかありませんでした。けれど、少年は夢の手をしっかりと繋いでいたために夢はそこから離れることができずに仕方なくその場に留まって泣きながらわずかに耳を傾けていました。
「少女は進んだ。真っ暗な闇の中を。真っ暗で何もない場所だと少女は思っていた。だけど、それは違った。ある時、少女のいる場所に一つの光が差し込んだ」
「ひか、り…?」
 俯き、聞くことを拒絶していた夢がじっと少年を見た。少年は夢を見て、優しく頷いた。そして続きを読みだした。
「少年は少女に言った。『こっちにおいで』と。そして、手を指しのばす。しかし、少女はそれを躊躇った。少女の心はぼろぼろだった。人と関わるのを拒んでいた」
 夢は夢中になり、その話を聞いていた。そして、夢は物語の少女に向かって小さく呟いた。「頑張れ」と。
「それでも、少年は諦めず、少女に呼びかけ続け、手をずっと差し延ばした。そして、言った。『信じて。怖がらないで』と。少女は信じた。少年の言葉を。少年自身を。そして、自分自身を」
 少年は夢の顔を見て、微笑んだ。夢はその時気付いた。少年がただ、この本を音読しているのではないということに。少年は、夢のために、夢に向かって、この本を読んでいるのだと。
「少女は少年の手を取り、大きな一歩を踏み出した。すると、どうでしょう。少女の世界は光に満ち溢れた。そこはとても美しい美しい世界だった。少女は泣いた。辛くて泣いたんじゃない。嬉しくて、泣いたんだ。少女はもう、暗闇に行くことは二度となく、いつまでも明るい世界で幸せに暮らしましたとさ。お終い」
 少年が読み終わると夢は大きく拍手した。夢は先程泣いていたとは思えないほどの笑顔を見せていた。それを見て少年はほっとしたように笑った。そして、少年はその本を手渡した。
「これは夢が持ってなよ」
「…え?でも…」
「夢に、持ってて欲しいんだ」
 そう言って、少年は笑った。
 その日を境に夢は変わった。新しい友達をつくろうと一生懸命頑張った。そして、夢の生活に光が差した。夢は今ならわかる。あの物語の少年は自分にとって、この公園で出逢った少年だったのだ、と。
 そして、その日を境に変わったのは、それだけではなかった。あの日以来、少年はこの公園に来なくなってしまった。理由はわからない。けれど、夢は今でもあの時の少年がいつかここに来ると信じている。だから、毎日ここで読書をしている。少年に私が朝日奈夢だと気付いてもらうために…。そして言うのだ。あの時、言えなかった言葉、「ありがとう」を。







*







 始業式。
 クラス替えの発表を見た夢は自分の新しい教室に入り、ふと昨日の守のことを思い出す。そういえば、守がどこの学校なのか訊くの忘れたな、と思いながら。夢は昨日あの公園の少年のことで頭がいっぱいだった。もしかしたら曖昧に答えていた部分もあったかもしれない。夢は守に対して申し訳なく思うのだった。
 クラスに入ると、既に友達が何人か来ていて、楽しそうに話をしていた。夢に気付くと、すぐに挨拶をしてくれ、夢も話の輪に加わる。そんな夢が今あるのは全部、あの時の少年のお蔭だ。
 暫くすると、先生が入ってきて、HRが始まった。
「転校生を紹介するぞー」
 4月のこの時期に転校生が来るというのは特別珍しいことでもない。それでも、いつだって転校生というのは生徒の心をどきどきわくわくさせるものだった。勿論、夢もそう感じるうちの一人であった。
「入れ」
 そう言われ、入ってきたのは一人の少年だった。夢の知る、あの男の子。周りの女子は「格好良い!」と言い、きゃーきゃー騒いでいる。そんな中、夢は驚いた顔をしていた。
「小川、君…?」















*
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