中編

□至福のひととき
1ページ/5ページ


 風の声が聴こえる。風に揺らされる木々の声が聴こえる。鳥達の歌声が聴こえる。子供達の笑い声が聴こえる。足音が聴こえる。
 本を開けば、いつだって、その世界の声が聴こえる。








 …君の声も、聴こえればいいのに。








*







「んーっ!」
 とある街のとある公園、友桜(ゆうおう)公園。そこで一人の少女―――朝日奈夢(あさひなゆめ)は木の横にあるベンチで、読んでいた本を閉じる。そして、思い切り深呼吸をし、伸びをする。そんな夢の瞳はまるで子供のようにきらきらと輝いていた。
「面白かったー!」
 満足、というように満面の笑みを浮かべる。本のタイトルと表紙の絵を見つめ、物語の余韻に浸っているようだった。
 この公園、友桜公園は夢のお気に入りの場所だ。小さい頃から毎日のように通っている。私の庭、と言っても過言ではないくらい夢はこの公園に通っていた。この公園が大好きなのだ。特に今座っているベンチは三時から四時――ちょうど今の時間に座ると、夏は涼しくて気持ち良い。最も、今は春、四月なのだが、夢にとっては季節など関係なく、どの季節のどの時間でもお気に入りの場所なのだ。けれど、今の時期はちょうど桜が満開に咲き誇る時期。そして、夢が座っている近くの木も桜。当然、この木も満開である。これも夢にとってこの場所がお気に入りである一つの理由であった。秋には紅葉もする。地元の穴場スポットでも言うべきであろう。
 夢は満開の桜を見て、微笑む。そして、先程読んでいた本を鞄の中にしまう。この公園のこの場所で読書をするのは夢の日課だ。勿論、雨の日など例外もあるが、大抵学校の終了を告げるチャイムと共に学校を飛び出し、公園へやって来ては本を読むのだった。
 夢はベンチから腰を上げ、公園の出口に向かって歩き出す。しかし、直ぐに足を止め、体の向きを変えると、遊具に向かって歩き出した。夢は現在高校生だ。高校生が遊具に向かうとは何事であろうか。
 滑り台の近くに来ると、ポケットを探りハンカチを取り出す。そして、ある場所をせっせと拭き出した。――落書きがあった。しばらく夢は粘り強く滑り台の落書きを落とし、やっと落ちた時にはハンカチは真っ黒だった。夢は黒くなったハンカチはあまり気にせず、ポケットにしまう。その代わりに綺麗になった滑り台を見つめ満足そうに頷いた。夢はこの公園が大好きだ。だから、落書きなど許せないのだった。
「夢ちゃん!」
 落書きが終わった直後、一人の老人が夢に向かって手を振り笑顔で走っていた。雑巾を持ちながら手を振り、もう一方の手にはホースを持っていた。
「落書き消そうと思って持ってきたんじゃが…もしかしてもう消しちゃったかの…?」
 そう言いながら、老人は先程夢が落とした落書きがあった場所を覗く。
「おおっ。すまんのぅ、夢ちゃん。いつもありがとう!」
「いえ、そんな。大したことはしてません。管理人さんこそ、いつもありがとうございます」
 そう、この老人はこの公園―――友桜公園の管理人であった。老人は頭は白毛だらけであるが、先程雑巾とホースを持って走って手を振ることからわかるようにとても元気な老人であった。そして、中でも老人のこの笑顔はとてつなく優しく、強いエネルギーを発しているように感じるのだった。夢はそんな管理人さんが大好きなのだ。とても接しやすく、親切で優しい人だ。そして、誰よりもこの公園のことを大切に想っている…。それがじわじわと感じ取ることができた。
「ははっ。そんな大したことはしていないんじゃがなあ。感謝されるとは嬉しいのぉ。…夢ちゃんはこれから本屋さんかい?」
「はい。探してる本があって」
「そうかい、そうかい。見つかるといいのう」
「ありがとうございます」
 この公園で読書したあと、本屋に行くのが夢の日課だった。目的の本があるにしろ無いにしろ本に囲まれると夢は幸せな気持ちになるのでした。
 夢は管理人さんと別れると、本屋に向かって歩き出した。








*







 夢は本屋に着くと、直ぐに目的の本を探し始めた。本日発売の新刊で夢の大好きな作家の本があるのだ。早速新刊コーナーへ向かう。夢はこの本屋の常連であった。その為本などの場所は全て把握していた。だから、本を探すのにそんなに時間はかからなかった。夢はすぐに目的の本を見つけた。幸か、不幸か、本は残り一冊だった。夢は間に合って良かったとほっと安心する。そして目的の本に手を伸ばす。
「あ」
 二つの声が重なり合った。一つは夢の声。そして、もう一つは少年の声だった。二人はほぼ同時に目的の本に触れていた。しかし、運悪く残りは一冊。どちらか一人が本から手を引かなければならない。
「悪いけど、その手退けてもらえる? 俺、この本の発売ずっと楽しみにしてたんだ」
「そ、それは私だって、一緒です…!」
 見たところ同い年くらいの少年だった。しかし、初対面で、同い年くらいに見えるとはいえ、年が定かではない人に向かっていきなりため口というのはどうであろうか。
 二人は睨みあう。どちらも一歩も譲らない、という調子であった。しかし、先手必勝とばかりに少年はその本を奪い取った。
「あっ!」
 夢は抵抗しようと、本を引っ張ったが、男の子の力に敵うはずもなく、簡単に本を取られてしまった。
「それと、俺の方が一秒くらい速かったから」
 少年はそう言うと小説をレジまで持っていき、お金を払うと足早に店を出た。
 夢はそんな少年の姿を見て、溜息をつく。そして、一秒少年が速かったのなら仕方がない、と思った。夢は人の言ったことをすぐに信じてしまうところがあった。一秒速かった、なんて保証は少年にも、勿論夢にも、そして第三者が見てもなかった。最も、そんなことを今更言ったところでどうにもならないのだが。
 夢は新刊は諦め、また後日来ようと決め、仕方なく店内で他の本を眺め、興味がある本を何冊か買った。どの本も面白かったが(といってもまだ最後まで読んでいないためあくまで序盤の感想だ)、それでも目的の本が買えなかったショックが夢の中に残っていたのだった。








*







 春休み最終日。夢はまた友桜公園へ行き、昨日買った本の続きを読もうとしていた。すると、いつもの席に一人の少年が座っていた。それはとても珍しいことだった。夢は七年間、このベンチに座っている人を見たことがなかった。そもそも、公園のベンチを利用する人が少なく、公園のベンチが人で埋まることはほとんどなかった。
 初対面の男の子の隣に座るというのは多かれ少なかれ抵抗があるものだ。それでも夢はこのベンチが良かった。そこで、夢は勇気を出して言ってみた。
「あの、隣いいですか?」
 どうやら少年も本を読んでいるようだった。夢はこの少年に自分と同じ何かを感じた。
「ああ、どうぞ」
 そう言い、振り向いた少年の顔を見て、夢も、そして少年も驚いた。
「ああ!!」
 そう、その少年は昨日本屋で会った少年であった。

























*
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ