07/10の日記

21:06
政幸I
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幾つもの階段を駆け上がり、最上段の板を踏み締めたと同時に色濃い霧に包まれる。

いや違う…これはただの霧ではない。いち早くそれに気付いた佐助は、政宗に何か投げて寄越した。それを吸っておけ、と目で語っている。生憎忍びではないから解毒の術は持っておらず、黙ってそれに従う事にする。此処まで来て倒れる訳にはいかない。幸村はきっと、この扉の向こうに。

「幸村ぁッ!!」

悪趣味なそれを蹴り飛ばすと、重苦しい雰気を漂わせるその部屋の奥に、この城の主が鎮座していた。

その足元には―――飼い主に甘える猫のように、組んだ足に身をすり寄せる変わり果てた己の恋人の姿。予想だにしていなかった光景に、政宗はぎり…と奥の歯を噛み締めた。

「…私の城へようこそ諸君」

「松永ッ…テメェ…!」

「酷く無粋な真似をしてくれたが…卿らがお探しなのは、この虎で間違いなかったかね?」

いやはやすっかり懐いてしまって、お返しする気も失せてしまったよ。

見せ付けるように幸村の頭を撫で、何事か耳打ちをしている。緩慢な仕草で相槌を打つ幸村は、2人の姿など見えていないかのように久秀だけをその瞳に映していた。

「ゆき、……幸村ッ!!俺が分からねぇのか!!」

「待って、竜の旦那!」

これは傀儡の香だ、あの様子じゃ旦那に自我は無い。チラと奥の方を見れば、この霧の原因であろう香炉が不気味な色を放っていた。

あれに幸村は自由を奪われ、そして…愛を囁いた筈の政宗の事も、幼少の頃からずっと一緒だった忍びの事も、完全にその記憶から抹消されている。もうどれ程この香を嗅がされていたか分からないが、手遅れになる前に助け出さなければ。

「…幸村を返しやがれ」

「これは卿の所有物ではなかろう。勘違いしないでくれたまえ」

「勘違いしてやがんのはテメェだ、松永久秀…」

幸村が戻るべきなのは、己が腕の中のみ。出来ることなら一時も手放したくは無い、それが例え子供じみた独占欲だったとしても、純粋に幸村を想っているのは間違う事無き事実なのだ。共に刻んできた時間は長くはない、けれど結びついた心はそう脆く崩れるものではない。何よりも大事な、愛しくてたまらない恋人をこの腕で掻き抱きたい。

だがそれを阻む者が居る限り、排除しなければ守りたいものも守れやしない。パチ…と帯電した刀をきつく握り直すと、それに気付いた久秀は低く笑った。

「さぁ…幸村。お前の美しき姿をもっと見せてくれないか」

「…はい…」

頷いた幸村は久秀の腰元から刀を一本抜き去ると、無表情のままその切っ先を政宗に向ける。血の海でこそ映えるその紅蓮の姿を、久秀はもう一度見てみたかった。甘える仕草…快楽に蕩けた表情よりも美しき、まさに至宝と呼ぶに値するもの。揺らめく炎に魂を焦がされる。

「猿……絶対に手ェ出すんじゃねぇぞ」

生憎刀を扱う幸村は相手にした事がない。だが、あの二槍をいとも容易く我が手足のように操る技量からすればきっとそれ相応のものなのだろう。

「旦那を傷付けたら、」

「俺がそうすると思うか?」

いいからお前はそこで見てろ。吐き捨てるように言うと、こちらも刀を構えて向き合う。

だがその瞬間に、心の底から沸き上がる高揚感は微塵も感じられなかった。これは政宗の知る"虎若子"ではない。久秀に操られた、憐れな人形。そう思わなければ、戦場でもない場所で己が恋人に刀を向けるなんて嘘でも出来やしなかった。



つづく
 

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