短篇集

□脳に効く薬
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 当然というか、マユリは自らの手で一刻も早く解毒剤を製作しようとした。
 ネムはその隣でいつものように、しかしいつもの倍以上のスピードを求められながら助手を務める。

 しかし企画すら着手前だった解毒剤、マユリとてすぐに完成させられるわけではない。 局員が作った薬品の資料を頭の中の記憶と照合し分析し、理論を構成することが必要になる。
 そう、考えなければならないのだ。
 このくらいすぐに終わらせてみせると強がったが、即効性の原液の成分はどんどん脳に回る。思考が片端から指の間をすり抜けて行くような感覚。

 やがてマユリは資料を捲る手を止めた。
 
 「マユリ様?」
 状態を確認するようにネムが呼びかける。
 「・・・ネム」
 マユリは娘の名を呼ぶ。薬を飲む以前の記憶は全てきちんと残っており、前向性健忘を起こす薬品としては成功しているらしい。
 そんなことを考えて必死に冷静さを保とうとするが、それすら不自由になっていく。

 論理的思考が働かない。
 これまでずっと科学者・涅マユリが何よりも大事にしてきたものが、闇に溶けて消えていく。
 死にも勝るその恐怖に脈拍はいよいよ速くなり、辛うじてマユリが保っていた最後の理性が圧し潰された。

 「ネム」
 呼べば娘は震える声で、はい、マユリ様、と答える。
 マユリは低い声で早口に命じた。
 「私を殺せ」

 「は・・・!?」
 ネムが目を見開き、引きつった声を上げる。
 
 「毒物が保管してあるだろう。実験室のものでも、倉庫のものでもいい。命令だヨ」
 「な、何を仰るのですか!マユリ様はっ・・・!」
 悲痛に抗議するネムの表情に気を配る余裕もなく、マユリはネムの胸倉を両手で掴んで叫んだ。
 命令と言いながら、それはもはや懇願だった。

 「私が何も考えられなくなる前に殺してくれ!お前なら解るだろう、私は死ぬまで科学者でいたいのだヨ・・・!!」
 
 錯乱したマユリはそれでも、自らの人生の意義とも言うべき思考に執着した。
 早く、と別人のような形相で掴みかかる父親に気圧され、慄然としながらネムは少しの間言葉を失う。
 一瞬目を閉じ一呼吸置いて、胸元にすがる父親に視線を戻したネムは、表情を消し低い声で呟いた。

 「申し訳ありません、マユリ様。」

 どんっ。
 音と同時にマユリの意識が飛ぶ。
 腹部に叩き込んだ拳を引いて、ネムは力を失った父親の体をいとも簡単に抱え上げた。

 つい先程までマユリが執務中だった局長室に戻ったネムは、マユリを椅子に掛けさせるとてきぱきと室内を動き回って作業を始めた。
 壁の棚や机の引き出しを見て回り、危険な薬品や刃物などを片っ端から集める。
 そして意識を失ったままのマユリの体を、椅子に固く縛り付けた。
 
 「・・・すみません。少し、待っていてください」

 マユリの膝の上に脚を乗せて固定し、縄の端を持って血流が止まらない程度に締め付ける。縛り方も考えた。これなら縄抜けできまい、とネムは密かに満足する。
 最後に書きかけの原稿とマユリが誤飲した薬品の容器・資料を手に取り、今しがたかき集めた危険物と一緒に抱えて部屋を出た。
 局長室の扉にもしっかり施錠する。
 資料の束を握り締め、ネムは廊下の奥を睨み据えて一人呟いた。

 「私もあなたに育てられた、科学者ですから。」

                             *

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