短篇集
□脳に効く薬
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『脳に効く薬』
「あと一刻半ほどで、檜佐木副隊長が原稿をとりに見える予定です。」
「五月蝿いネ!わかっているヨ、黙って居給え!」
副官の声に苛々と怒鳴り返しながら、涅マユリは絶え間なく筆を走らせる。
瀞霊廷通信で連載している実験レポート『脳にキく薬』の原稿だ。締切は副官にして娘のネムに今言われた通り目前に迫っており、マユリは珍しく余裕を失くしていた。
一瞬筆が途切れる。レポートとはいえ、読むのは大抵科学研究に明るくない素人の死神達だ。マユリは毎回面倒だと悪態をつきながらも、素人にも考えれば理解できる程度の題材を選び、普段資料で使うよりもずっと解りやすい言葉を使うように心がけている。
言い回しや説明の順序をその都度考え直しながら文章を書いているのだ。考えるということが必要な作業は、焦れば焦るほど進捗が思うように行かなくなる。
「ああもう・・・」
全く凡人に合わせるのは苦痛だヨなどと言いながら、資料に視線を固定したまま先ほどネムが置いた茶に手を伸ばした。
ぐい、と一気に呷った次の瞬間。
「あ!・・・マユリ様、それはっ」
「ん?」
ネムが小さく叫ぶ。
味や匂い、質感が煎茶のそれでないことにマユリも気付いたが、時すでに遅し。
茶とは違う不快な苦味が、食道を下っていく。
「・・・開発中の、新薬のサンプル・・・」
「く・・・・・・!!!」
冷たい汗が吹き出す。
手元にあった新薬のサンプルの入った器を、湯呑みと間違えて手にとってしまったのだ。
きちんと視認するべきだった。少し言葉に詰まった後、マユリはネムに向かって怒鳴った。
「・・・解毒剤はッ!!」
「まだ、企画着手前です」
答えるネムは一見平静だが声が震えていた。
口に出すのを戸惑うように数度唇を動かしたあと、ネムは途切れ途切れに言う。
「脳に作用して前向性の全健忘を起こさせ、記銘の機能を、奪う薬品・・・」
「五月蝿いヨ!」
「しかもそれは即効性の、原液です・・・!!」
「五月蝿いと言ってるだろう、解っているヨ!」
当たり散らすようにマユリは再度怒鳴りながら、血の気が引いていくのを感じた。
記銘とは新たな記憶を形成すること、つまり物事を覚えるということだ。
自らの記憶は局内の機械に全てバックアップを取ってあるマユリだが、人は常に何かを五感で新たに知覚し続けて生きている。単純な思考すらも、脳の過去の動きを一瞬ごとに記憶しながら新たな動きを作り出してなされるものだ。
完全に記銘ができなくなるということは、ものを考えることすらも満足にできなくなるということ。
だからこそこの新薬は、一種の兵器として開発されたのだ。
そしてその濃密な原液を誤飲したその瞬間から、マユリは急激な勢いでその兵器の威力を身を以て体感することとなる。
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