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□『 すくーる でいず 〜 シナモンとネクタイ 〜 』D
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 9月も終わろうとしているのに、夜の空気にはまだ夏の匂いを感じた。湿度の高い空気が体にまとわりつくような感覚は、暦の上では秋だなんて言う気にもならないほど暑苦しくて、鬱陶しい。
 スーツの上衣をカバンと一緒に持ちながら空いた右手でネクタイを緩めたコトで、ようやくホッと息がつけたような気がする。
 駅から歩いて10分の1LDKの自宅マンションに向かいながら、拓は雄一のコトを考え続けていた。
 あの日から、もう1か月が経とうとしているのに雄一とは連絡を絶ったままだった。 日々の生活の中で思い出さないこともなかったけれど、今回は雄一の方が悪いのだからと拓は頑なに連絡を取ろうとはしなかった。
 いつもなら10日前後でどちらからともなく連絡をとって元の鞘に落ち着いていたのに、今回は雄一からも連絡は無かった。

(今度こそ、本当に終わりなのかもしれないな)

 そんな考えが頭を過ると同時に、拓は雄一と出会った頃のコトをふと思い出した。
 初めて会った時、同じ大学に通っていた雄一はグラフィックデザイン学科の2年生、拓は絵画学科の1年生だった。
 共通の友達の紹介で知り合ったのだけれど、成績優秀でいつも皆の中心にいた雄一に拓が片想いをするという形でのスタートだった。
 当時 雄一には同じ学科に籍を置く彼女がいた。 だから拓は何も望んではいなかった。 ヘテロの男を好きになったって、それが報われることなんて無いと、拓はよく知っていたから。
 そんな二人の関係が変わったのは、夏休みも近い7月の日曜日のコトだった。
 課題制作が遅れていた拓は休日返上で絵画学科のアトリエに籠っていた。 そこへ偶然雄一がやって来た。
 好きな先輩と二人きりになれた嬉しさと緊張、そして制作を急がなければという焦りがごちゃ混ぜになったせいで、拓の心臓は早鐘を打ちっぱなしで筆を持つ手が震えないようにするのが精一杯だった。
 だと言うのに雄一は拓の真後ろに立ち、その肩越しから拓の描きかけの絵をのぞき込んで来た。 何の感情も無いからこそできる行動だと拓には判っていたけれど、心拍数が上がるのを止めるコトはできなかった。
耳をくすぐる呼吸音に、拓の緊張は増していく。
 そうして、拓の想いを知る由もない雄一が一言つぶやいた。

「幼い絵だな」

 途端に拓は、全身が凍りついたように固くなるのを感じた。
 空調の入れていない夏のアトリエは、窓を全開にして風を通してもじんわりと汗が浮いてくるほど暑いのに、拓は全身が粟立ち筆を持つ手が震えるのを止められなかった。
 幼稚な絵だと笑われたと思ったからだ。
 確かに雄一の実力はグラフィクデザイン科でも群を抜いていて、学生ながら大きな賞候補になったコトもあるほどなのだから、そんな人から見たら拓の絵など子供の落書き程度に見られても仕方ないかもしれない。けれど、それを雄一本人に面と向かって言われたコトがショックだった。
 俯く拓の大きな瞳から不意に零れた水滴がジーンズにポトリと落ち、丸い染みを作った。 それが一層、拓自身に情けない思いを感じさせる。

(こんなコトくらいで…俺、何やってんだ…)

 これ以上は泣くまいと必死に涙を堪えていると、拓のジーンズの染みに気づいたらしい雄一が突然慌てだした。

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