ハルはまっすぐ俺を見ていた瞳を少し和らげて微笑った。
「七菜子だよ」
目を逸らすコトなく俺を見るハルのその声に迷いなんて一つもなかった。
それだけで、ハルがずっと妹の七菜子さんのコトを深く思い続けていたんだと分かる。
「なるほどね、そういうコトなら俺たちはたぶん、他の誰よりもお互いを理解し合えるかもしれないな」
「塾でおまえら双子を初めて見た時にピンと来たよ、ルキのユキへの想いは俺が七菜子に抱くそれと同じだって。俺たちはすごく似てるんだ。だから気になって、おまえと話がしたいって思ってた」
「なにが話≠セよ。早々にセックスに持ち込んだくせに」
「憧れみたいなのもあったんだよ。あの歳でインセストタブーを受け入れられるのって凄いなってさ」
憧れ、なんて言葉をハルが使うから思わず笑ってしまいそうになった。ハルにそんな感情を持ってもらえるほどの決意が、あの頃の俺にあったわけじゃない。
タブーとかそんな言葉に抑止力なんてないし、理性でどうにかできる程度の想いなら最初からユキを好きになったりしない。受け入れるもなにも、気づいてしまった以上どうしようもなかっただけだ。
「ハルは勘違いしてる、俺はそんなに強くねえよ。血が繋がってる上に男同士なんて、そんな欠片ほどの望みもない恋を簡単に受け入れられるヤツなんているわけない―――」
そこまで言って、ふと疑問を覚えた。
俺とユキの関係と、ハルと七菜子さんのそれは確かに状況が似ている。でも一つだけ大きく違うものがあるじゃないか。
「ハル…と七菜子さんは男女だろ? なんの問題があるんだ? 近親姦の劣性遺伝が心配なら子供なんて作らなきゃいいだけの話だ。二人が兄妹だってコトを知ってる人がいない場所へ逃げちまえばいいだろ? だって、あんた達は両想いなんだから」
「知ってたの?」
少し意外そうに目を丸めたものの、ハルは驚いた風もなく首を傾げて俺を見た。
「七菜子さんがハルを好きだってコトか? それなら、さっきメシ食ってる時に気づいたんだよ」
「そっか…正樹は未だに気づいてないのにね。まぁアイツは真っ当すぎるくらい感性が普通だから、七菜子が俺を、なんて夢にも思わないんだろうな」
沼田のコトを笑っているようでいて、その実ハルは自虐じみた笑みを口元に張り付かせている。それは常識を超えた恋をしている自分とは違い、相手に真っ直ぐ好意を示せる沼田が羨ましいからなのか。
「俺はね、別に他人からどう言われようが後ろ指差されようが平気――」
まるで俺の思考を読み、それを否定するようにハルは抑揚のない声を零した。そして続けて発せられた言葉を、俺はすぐには理解できなかった。
「それにさ、遺伝子上の問題は起こらないよ。だって七菜子と俺は、戸籍上は兄妹だけど血は繋がってないからね」
「……っ!?」
ハルの口からサラリと流れ出た
真実はあまりにも唐突で、俺は目を見開き意図せずして顎が下がるのを感じた。
――血が繋がってない?
「それって……」
「うちの両親、お互いに子連れ再婚だったんだよ。俺は母の連れ子で、七菜子は父の連れ子なんだ。だから兄妹って言っても義理で――」
「なんなんだよ、それ!」
気づけば俺は大声を上げていた。
告白の言葉が最後まで紡がれる前に、ハルのシャツの胸ぐらを摑み激しく揺する。
ふつふつと沸き上がる激情を俺には止めるコトができなかった。
「それなら、なんの問題もねえだろ!義理の兄妹? だったらどっちかが籍抜いて他人になったら済むんじゃねえの? それとも気になるのは沼田か? 親友を裏切ってまで妹を選ぶなんてできませんってか? じゃあ、親友に気兼ねして好きな女を諦めるのかよ? あんたいったいなにがしたいんだよ。なんの問題もないくせに……普通に幸せになれるのに…全然、ちっとも…俺と同じなんかじゃ、ねえじゃん…」
怒鳴って、喚き散らして、最後の方なんて少し涙声になってしまっていた。
なにを考えてハルが、俺たちが同じだなんて言ったのか分からない。
ハルと七菜子さんは祝福されて恋を成就するコトができるのに、俺とユキ…いや、俺にはなんの望みもない。一生不毛な片思いを続けていくだけだ。
俺たちとは…いや、俺とハルとじゃ全然違う。
ほんの一瞬でも同じ境遇で理解し合える人がいるんだって思ってしまった自分がバカみたいだ。
体の力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ俺の前にハルも同じようにしゃがみ込んでくる。
年上のくせに俺より一回りは小さい手が頭に触れて、優しくそれに撫でられた。
「俺はルキと同じだよ。だって…なにをどうしたって俺は七菜子
とは一緒になれないから」
「どうしてだよっ!」
ハルの手を払いのけながら顔を上げた俺の目の前にあったのは、今にも泣きそうなのに必死に笑顔を取り繕うハルの姿だった。
「忘れてるだろ……俺、ゲイなんだよ」
「っ――」
そう、だった。
ハルはゲイで、だから俺たちは互いの隙間を埋めるみたいにセックスしてた。でも――
「な、七菜子さんが好きなんだろ? だったらゲイってわけじゃ――」
「七菜子のコトは好きだよ、子供の頃から好きで好きで誰よりも一番大切だよ。本当言ったら正樹にだって渡したくない。だけど…どんなに気持ちが強くても、俺が七菜子を好きでも、七菜子が俺を好きだと思ってくれていても、俺の体は反応しない。俺には女の人を…七菜子を抱くコトはできないんだよ」
目を伏せたハルは「どうしたってね」と呟いた後、また微かに笑った。
その痛々しい笑みは俺の胸を詰まらせ、思わずハルの両腕をギュッと掴んでいた。
「でも、でもっ、セックスなんてできなくても、お互いが本当に好きあってたら一緒にいられるだけで幸せなんじゃないのか?」
「本当にそう思う? 俺を選ばなかったら七菜子は女として普通に幸せになれるんだよ? 結婚して妻として愛されて、子供を産むコトだってできる。心から望んでくれる人がいるなら、七菜子はその人と結婚した方が良いに決まってるでしょ」
「そんなのハルの独りよがりだ。そういう人生を選ぶ人ばかりじゃないだろう?」
「うん…そうだね、自分でそう望んだのならね。でも、俺と七菜子は違うよね。俺の事情を七菜子に押し付けて、七菜子にだけ我慢を強いてそれを受け入れさせるの? それで七菜子は幸せになれるの?」
「……」
なれる≠ニは言えなかった。
俺は女じゃないから、七菜子さんじゃないから分からない。彼女の望む幸せがどんなものなのか、ハルと生きるコトより幸せな生き方が他にあるのか。
それは七菜子さんの問題であって、俺が決めるコトじゃない。
「七菜子の幸せの可能性を奪ってまで、俺だけが幸せになんてなれないよ」
しゃがみ込んだ姿勢のままハルは俺を見ていた。俺もまたハルを見ていた。
ハルの言いたいコトは痛いほど分かる。大切な人だからこそ、幸せになって欲しいんだと。
でもハルの言う七菜子さんの幸せは、ハルの不幸せにしか繋がらない。
「七菜子さんはハルの気持ち知ってるのか?」
ハルはゆっくりと首を横に振った。
二人は両想いなのにな、と思うと胸が痛い。
「七菜子さんは、それでも良いって言うかもしれない…」
体での愛情より未来の家族より、ハルと一緒に居るコトだけを七菜子さんも望むかもしれない。
そう思ったけれど、ハルは薄く笑ってまた首を振った。
その姿が酷く頼りなくて悲しくて、俺はハルを引き寄せ抱きしめた。
ハルの手は、俺を抱きしめ返しては来なかったけれど、俺はハルを離さなかった。
俺の肩に額を押し当てたハルが、小さな声で「ごめん」と謝る。
「俺、バカみたいに弱いからさ、こんな思いをしてるのは俺一人だって考えるの怖くて、ずっとルキをつき合わせちゃってた。中学生の頃からルキは強くて、いつでもまっすぐにユキを想っていて、そういうおまえがカッコ良くてさ、一緒にいたら自分も強くなれる気がしたんだよね。俺は一人じゃないって…」
「一人じゃねえよ…俺がいるじゃん」
そうだ、ハルには俺がいる。
俺はずっとハルの存在に助けられてた。中学の頃も、今も、ハルが居たから――
グッと胸を押し返されて、ハルは俺の腕の中から逃れると顔を上げた。
そうして、まっすぐに俺を見た。
「もう、会うのやめよう」
一瞬、ハルの言うコトが分からず眉を顰めた。
ハルは逃れるみたいに俺の手を押し返して立ち上がると、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「会うの…やめよ」
「なんで?」
「なんでって――」
ハルは俺からついっと視線を逸らして窓の向こうに視線を移すと、言いにくそうに顔を伏せた。
「ルキ、分かってる? 俺は、ルキを利用してたようなものなんだよ。ルキはユキを好きだから男とのセックスに興味がある、俺の誘いを絶対に断らないって分かってて、引き返せないところに引っ張り込んだんだ。まだ中学生だったルキを――」
「それがなんだよ、俺だってハルを利用してたんだ。同じだろ」
「違うよ、全然同じじゃない。ルキは俺と違って強いから、俺がいなくてもずっと一人で自分の気持ちに向き合って行けたはずなんだ。でも俺は…逃げたから。物理的に離れれば気持ちも離れるかもしれないなんて、就職を口実に東京に逃げたんだ、七菜子から……引きずり込んだルキのコトも放り出してね」
ハルがそんな風に考えてるなんて知らなかった。まじめな顔なんて、今日まで一度として俺に見せたことが無かったのに。
ほんの短い間、体の関係を持っていただけの俺にまで後ろめたさを感じていたなんて思いも寄らなかった。
「俺、ハルはノリと尻の軽さに比例した、いい加減でテキトーなヤツだと思ってた」
「…酷っ」
クスッと笑いを漏らしたハルは、ようやく俺の方へと振り返ったけど、その顔にもう笑顔の片鱗は残っていなかった。
「でもホントその通りだよ……だからもう、俺とは――」
「だったら、それでいいじゃん。端からいい加減な奴だって分かってたんだ。それなら放っぽりっ出されても腹も立たない」
「無理だよ、俺は自分を許せない……なんて、全部バレるまで黙ってたくせに今さらだよね。けっきょく俺はそういうヤツなんだ、卑怯で、狡くて――自分の弱さを誤魔化すためになんにも知らないルキを利用してた」
「だから言ったろ、俺もハルを利用してたんだ。なら同罪だろ」
「違うよ…あの時、俺は大人でルキは子供だった。それだけでも俺は前科者だからね」
「ハル……」
「もう帰って」
なにをどう言っても聞こうとしないハルに、俺もそれ以上なにを言ったらいいのか分からなくて必死に言葉を探したけど、なにも、本当になにも思い浮かばなかった。
俺に向けられたハルの背中がすべてを拒絶しているようで、もう俺にできるのは黙ってここから去ることなんだと、嫌でも理解するしかなかったんだ。
この数年、知らない間に俺より小さくなっていたハルの背中から目を背け、踵を返す。
「元気でね、ルキ…」
玄関のドアを閉める間際にそう聞こえた気がしたけど、それすらも俺の願望が聞かせた幻聴のように思える。
ハルは本気で俺と決別するつもりなんだ。
それが分かったから、俺はこの部屋を出るしかなかった。
「………」
人通りのない住宅街を歩きながら、俺は無性に悔しくて悔しくて、握り締めた拳を上着のポケットに捻じ込み唇を噛みしめた。
俺はもう分かってる。
自分のユキに対する想いは、俺たちの住む世界の常識の中では決して許されるものではないんだと。
だから諦めようとしてる。好きな気持ちは変わらなくても、ユキのために普通の兄弟でいようと……
そしてハルは、自分では幸せにしてあげられないからと、想いの通じ合ってる七菜子さんを諦めた。
ハルと俺は同じようでいて、同じじゃない。
血の繋がった実の兄弟だから、心底惚れたユキを諦めなければならなかった俺と、どうしたって女が抱けないゲイの兄貴が義妹への想いを諦めたのとでは、どちらの方がマシなんだろう? どちらがより悲しいんだろう?
一生もののこの想いを閉じ込めた俺とハルは、救われないままこの先も生きていかないとならないんだろうか。
「ハル…これから、どうするんだろうな」
七菜子さんへの想いから一度は逃げ出したハルが気持ちを預ける相手も無く、この先どうやって彼女と向かい合っていくのか俺には分からない。
でもその辛さなら容易に想像がつく。
ハルは本当にバカだ。俺のコトなんて黙って利用するだけすれば良かったのに。
「変なところで常識人なんだ、ハルは…」
俺の頭の中は、ハルの無理に笑った悲しげな
表情が浮かんでは消えをただ繰り返すばかりだった。