待ち合わせたハルと二人で向かったのは、ハルのマンションからもそう遠くはない場所にある洋風ダイニングだった。
店員に案内されるまま奥の個室に着くと、すでに沼田が一番乗りしていた。
それだけ気合が入ってるってコトか。
なんかムカつく。
「早かったんだね、正樹」
どう座ったらいいのか迷ったけどハルがなにも言わずに沼田の向かいの席に座ったから、俺はそのあとに続いてハルの隣に座る。
しばらくして木製の格子戸が再び開き、店員に案内された七菜子さんがやってきた。
口々に簡易的な挨拶を交わす中ちょっと戸惑った様子の七菜子さんだったけど、空いている席は沼田の隣しかないわけで、若干呆れたような溜息を零すと沼田の隣、つまりは俺の向かいに腰を落ち着ける。
直後に七菜子さんは斜向かいに座るハルを軽く睨んだ。
その様子からなんとなく理解できた。
今日の約束、七菜子さんは沼田が来るとは知らなかったんだろう。
それにしても個室に四人が揃うと密室感がハンパない。
特に俺は限りなく部外者に近くて、非常に居心地が悪い。
テーブルを囲んだ俺たち四人の中で、なんの思惑もなくこの時間を楽しもうとしているのはたぶん沼田一人だろうな。
それでもそれぞれの手にグラスが届き、頼んだ料理がテーブルを飾る頃には微妙な空気も和らいでそれなりに会話も弾み始めた。
ちなみに俺の手元にあるのはウーロン茶だ。この場にいる唯一の未成年ゆえ、保護者に囲まれているようなものだから致し方ない。
それにしても――
「相変わらず悠尚はよく食べるなぁ」
俺の心の声そのままを、沼田が代弁するように口を開いた。
ホントに、だ。その細くて小さい体のどこにそれだけの量が入っていくのか不思議でならない。
ハルは取り皿にてんこ盛りに乗せた料理を次から次へと平らげている。
実に燃費の悪い体だな、とは思ったけど、ここへ来る前の運動量を考えれば腹が減るのも頷けないでもない。
「…っ」
もりもりと料理をかっ込んだ油塗れのハルの唇がモグモグと動くのを見ていたら、ついうっかりセックスの最中のハルの顔を思い出してしまい、俺は慌てて唐揚げを口に放り込んで一心不乱に咀嚼した。
ヤバい、ヤバい。こんなところで勃起したらシャレにならない。
「本当にそれだけ食べて太らないのが不思議だわ。二人で暮らしてた時もご飯三合炊いて、それが一回の食事で無くなるんですよ。次の日のお弁当の分も炊いたら五合とか、二人暮らしの量じゃないですよね」
それは確かにスゴい。一世帯の住人数に対してのエンゲル係数が高すぎじゃね?
苦笑した俺と呆れ顔の七菜子さんと沼田をよそに、ハルは次の料理へと箸を伸ばしながら「腹減るもんはしょうがないだろ」と言い返していた。
「でも、お兄ちゃんがたくさん食べてるの見るのは、元気なんだなって安心するから好きなんだけどね」
それは、その場にいる者たちに向かってというよりは、ハル一人に向けて紡がれた言葉のように感じて、俺はふと向かいの七菜子さんをそっと伺い見た。
その途端、なにかが引っかかった。
七菜子さんはハルを見ていた。
口元は少しだけ笑っていて、目尻を僅かに下げていた。
決して大きくはない瞳はまっすぐにハルを見つめていて――
「え…」
思わず咀嚼を止めた俺は、声にならない呟きを零す。
この表情、どこかで見たことがある。
記憶の奥に封じ込めたなにかと、七菜子さんの表情がリンクした気がして俺は首を傾げた。
どこで? 誰が?
本当は嬉しくて堪らないくせに、悟られたくないのか必死に感情を押し隠すような
表情。
本人は隠してるつもりでも、ちょっと勘の良い者ならすぐにでも気づいてしまうくらい駄々漏れた感情。
あれは――
引っかかった記憶の糸のような物を手繰り寄せた俺は、不意にそれに行きつき「あっ!」と小さく声を上げた。
ユキだ。
中三の夏休み。ユキが俺を避けるようになったから気になって、図書館へ行くと言ったユキの跡をつけたあの日、ユキが南雲の前で見せたあの時の顔≠セ。
ユキに好きな男がいると初めて知ってしまったあの日の記憶は、俺にとって衝撃過ぎた。だから無意識に忘れようとでもしてたのか、ユキのあんな顔、今まで思い出したりしなかった。
「小澤君、どうした?」
つい上げてしまった声に沼田が反応してきたから、俺は慌ててモゴモゴと誤魔化した。
「いや、この唐揚げ旨いなって…」
「さすが育ちざかり、そういう料理好きなんだね。僕なんてもう唐揚げとか脂っこいものは胃にもたれちゃって」
「正樹、おっさんみたい。唐揚げ食べないならレモンかけてもいい?」
「ん、いいよ」
話に割って入って来たハルは付け合せのレモンを取ると、やおら沼田に向かってレモンを絞りかけた。
「わぁっ」
レモンの飛沫をモロに浴びた沼田が悲鳴のような声を上げるのを見て、ハルはひゃらひゃらと笑い出す。
「お兄ちゃん、なんてことするの」
七菜子さんが慌てておしぼりを沼田に手渡す様子を見ながら、ハルは腹を抱えて笑い転げている。
「だって正樹、いいよって言ったもん」
「お兄ちゃん!」
ガキみたいなハルの行動に呆れたフリで皆に合わせて笑いを浮かべたものの、上手く笑えているかは分からない。
俺は誰にも気づかれないように七菜子さんを見ていた。
レモン塗れになった沼田を心配して世話を焼きながらも、七菜子さんはハルを見ている。窘めるみたいに若干唇を尖らせていたけど、その目は特殊な色を滲ませ微笑ましげに細められていて、その瞬間俺はある考えに思い至った。
七菜子さんは、ハルのコトが好きなんじゃ――って、待て待て。二人は兄妹だろ?
いや分かってる、分かってるんだ。
例え実の兄弟でもそういう感情が芽生えてしまうコトもあるって、俺自身がそうなんだから。
でも、でも――
行きついた答えにどうしたって狼狽えてしまう。
血の繋がった身内を好きになるなんて感情が存在するコトを誰よりも知ってる俺だけど、七菜子さんがハルに、と思ったらどうにも衝撃過ぎてキャパを越えそうだ。
でも、それなら前に七菜子さんが言っていたことにも合点がいく。
お兄ちゃんが結婚するまで自分のことは考えられません≠サう言った七菜子さんの心理は、言い換えればハルが誰かと結婚してくれないと想いを諦めきれないとそういうコトだったんだろう。
それは俺が以前そのままをユキに対して思っていた気持ちだからよく分かる。
だけど、つまりそれは、今ここにいる俺を除いた三人がそれぞれ別の方向を向いた完全な三角関係だってことだ。
なんて不毛な三角関係。
俺は口の中に残っていた唐揚げの残骸をゴクンと飲み込んで、レモン騒動を続けている大人たちを順に見回した。
ハルは七菜子さんの気持ちに気づいてるんだろうか?
七菜子さんはハルからその性癖を聞かされていないから、ハルの沼田への想いなんて知るはずもないだろう。
そして七菜子さんの甲斐甲斐しさに嬉しそうに相好を崩す沼田は、間違いなくなにも気づいていないな。
ということは、この不毛な恋愛模様を知っているのは俺だけだってことだ。
気づいてしまった真実に俺はどうすることもできず、表面上は何事もなく楽しそうに笑いあう大人たちの姿にただ茫然とすることしかできなかった。
「どした? なんか静かだけど」
気づいてしまった事実に困惑して押し黙っていたら、急にハルが俺へと振り返った。
この大人たちの三角関係も、誰か一人でも振り返れば決着が着くのに。
でも自分に寄せられている想いに気づいていないから、振り返るコトなんてないんだろうな。
完全なる部外者の俺だけが真実に辿りついてしまったけど、介入していいコトじゃないのは分かるから黙って見ている他ない。
「……なんでもない」
他に言葉なんて出てこなかった。
とりあえず気づいたコトには気づかないフリで、この場に合わせるしかないってコトだけは分かる。
「お兄ちゃんがいい歳して子供っぽすぎて呆れてるのよね?」
「ちょ、七菜子っ」
「いやいや、高校の頃にもミカンの皮で同じコトされたからなぁ。悠尚は全然変わってないよ」
「正樹まで?」
「あー、まぁ俺の周囲にはこんなガキくさいコトやる奴いませんけどね」
「ルキまで! おまえくらいは俺を庇ってよ」
ポカポカと叩いてくるハルを両手で押し返す。
なんで俺だけ叩かれるんだよ。
「やってるコトがアホすぎて庇い切れねえだろ」
「それでも庇え」
「無茶言うなー」
「なんだか――」
押し合いへし合いしていた俺たちを見ていた沼田がポツリと言った。
「二人はものすごく仲が良いんだね」
「え?」
と、声を上げたのはハルと俺、同時だったと思う。
「塾で一緒だった期間ってそんなに長くなかったよね? いつの間にそんなに仲良くなったんだい?」
純粋な疑問なんだろうとは思う。
でも自分に後ろ暗いところがあるせいか、質問に裏があるような気がして言葉に詰まる。
まさかその頃からのセフレです≠ネんて言えるはずもないし、どうしたものかとハルに視線を送った。
「こいつが塾生だった頃にさ、俺が相談に乗ってあげたコトがあるんだよ。で、その後もちょいちょいメールのやり取りしてたから、ね?」
話を合わせろとばかりにテーブルの下で膝を突つかれた。
さすがはハル。よくもまあ嘘八百を上げ連ねるもんだ。
「そ、そうなんです。ハル先生すごく親身になってくれて、それからずっとお世話になってて」
「そうかぁ、悠尚は人気者だったからなぁ」
信じる沼田も相当なお人好しだよな。
おかげで俺もハルも助かったけど……
いや、ハルとしたらなんとしてでも誤魔化さなきゃならなかったんだよな
好きな男に年下のセフレがいるなんて知られたくないに決まってるもんな。
「東京に行ってる間も連絡取り合ってたの?」
「いや、その頃は全然…こっち戻って偶然会ったんだよ。俺より小っこい中坊だったのに、ずいぶん立派になっちゃってさ」
おい。今、俺の股間見ただろ。どこ見てなにを語ってんだ。
ハルはやっぱりハルなんだなぁ…と若干呆れる思いで気づかれない程度の小さな溜息を吐く。
そんな俺たちに向けて、沼田がポツリと零した。
「ちょっと…妬けちゃうな」
え?と思って顔を上げた俺の向かいから七菜子さんも身を乗り出してきた。
「分かります、それ。お兄ちゃんがここまで素を出すのって、私も沼田さん以外には見たことないですから」
七菜子さんまで話に乗っかったせいでハルは困ったように顔を顰めている。
「な、なんだよ二人とも。というか、そもそもこいつに取り繕っても仕方ないじゃん」
「あんたね、そういう言い方ってどうなんだよ。俺に対して失礼じゃね?」
「ハァ? おまえに礼を尽くしてどうすんのさ」
再び言い争う俺たちを見て、沼田が感慨深げに呟いた。
「良かったなぁ。悠尚は愛想が良くてフレンドリーなフリして実は人見知りなんだよ。他人にどこか一線引いちゃうところがあるから、なかなか続く友達ができなくて心配してたんだ。年下でも仲良くできる友達ができて僕は安心したよ。小澤君、これからも悠尚と仲良くしてやってね」
「…おまえは俺のお母さんか」
本当に母親みたいなコトをいう沼田に、ハルはますます顔を顰めた。
そりゃそうだ。好きな男から友達の心配されたんじゃな。おまけに、口の割には俺との仲を嫉妬する様子もないんだから。
どうやらハルの恋心は沼田にはまったくどころか、届く気配もないようだ。
なんだかとても変な夜だと思った。
すれ違う恋を抱えた大人たちは微妙にズレた会話を続け、部外者の俺はハルに寄って巻き込まれ、噛み合わないまま同じ時間を過ごす。
どこかおかしな食事会は、未成年の俺が深夜徘徊にならないうちに帰宅できるようにと少し早い時間でお開きとなった。
それぞれ同じ方向の、沼田と七菜子さん、ハルと俺に別れて帰路に着く。
沼田は七菜子さんを送っていけると嬉しそうだったけど、一方の七菜子さんは微妙な面持ちを浮かべていて、ハルに至ってはその感情を表情から読み取ることはできなかった。
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