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□桜 Trip  〜 忘れっぽい天使・番外編 〜
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「大丈夫か?」
 まだ体のままならない俺の代わりに後始末をしてくれた和泉さんに聞かれて頷く。
 障子の向こうは仄暗かったけど、少しだけ開いたままの襖から入り込んでくる明かりのせいで今が何時なのか分からなくなる。夕食の時間から考えれば、そんなに遅い時間ではないと思うけど。
 肘を着いてなんとか起こした体に纏わりついていた浴衣を直そうとしたのに、それを和泉さんに阻まれ有無を言わせず裸に剥かれたから驚いた。
「な、なに?」
「おまえがあんまりエロいからさ、今日の目的忘れるとこだった」
「目的?」
 なんのことか分からずに目をぱちくりさせていたら、強引に腕を引かれ隣の座敷に連れて行かれた。
 明るい部屋で裸って、相当恥ずかしい。それも事後なわけだし。
 状況に困っている俺には構わず、和泉さんはスパンと小気味いい音を立てながら座敷の障子を開けた。
「言ったろ、花見に行くって」
 開け放たれた障子の向こうはやっぱり広縁だった。そして、そのガラス窓の向こうは――
「うわぁ…」
 窓の向こうの暗いはずの景色は、視界いっぱいのピンクだった。
 岩作りの露天風呂とその脇に生えた大きな桜の木は満開で、時々風に揺られてピンクの花びらをはらはらと降らせていた。その花びらは露天風呂の水面に舞い落ちて、湯気に霞んで揺れている。
「スゴい……」
 言葉なんて、それしか出てこなかった。
「だろ? 洋介にこれを見せてやるのが、今日の一番の目的だ」
 和泉さんに手を引かれて広縁から外に出た。春の冷たい夜の風を肌に感じながら、露天風呂に足先を入れるとじんわりと熱が伝わってくる。
「風情があっていいだろ?」
 露天風呂に並んで浸かりながら、和泉さんが桜を眺めてフゥと大きく息を吐いた。
「うん、すごくキレイだ…」
 墨を流したような漆黒の空をバックに咲き誇る桜は、下から見上げるとますます大きく綺麗で溜め息しか出てこない。
 こんなに綺麗な桜を見たのは初めてかもしれない、なんて思ってしまう。
「仕事で来た時に、前に見たこの桜のことを思い出してさ。一番の見頃を洋介に見せてやりたいと思って女将に頼んで良い時期を押さえてもらっておいたんだ。喜んでもらえたなら俺も嬉しい」
「え、そんなことしていいの? ていうか、できるの?」
「ここは接待で使う常宿だからな、多少の顔は効くから予約も取りやすい」
「でも一番の見頃なんて予想がつくもんなの?」
「満開予想に合わせて一週間借り切ったからな。洋介がいいなら明日も泊まれるぞ?」
「……」
 耳を疑った。
 見開いた目で隣の和泉さんを見ると、たった今した発言なんてどうとでもないみたいな顔で微笑みかけてくる。
「嘘だろ…」
「なにが?」
「……」
 感覚が普通と違うと、そういうことなんだろうか。
 それにしても――
「そ、そんな、泊まるかどうかも分かんないのに借り切るとか…」
「おまえにどうしてもこの桜を見せたかったんだ。なんだよ、不満か?」
「そうじゃないけど…」
 やっぱり和泉さんと俺の感覚って違い過ぎる。元々のバックグラウンドの差が激しく違うから仕方ないのかもしれないけど、時々和泉さんのすることには驚かされる。ビンボーが板についた俺からは、信じられないことばかりするんだから。
 それでも和泉さんが俺のためにって考えてくれたことは、素直に嬉しいと思う。
 だから「ありがとう」と口にしようとしたのに、和泉さんはいきなりお湯の中に沈み始めてしまった。
 水面ギリギリで止まった口元がやけに尖ったその顔は、おもしろくなさそうな不満顔だ。
「やっぱ、旅行楽しくなかったんだろ。おまえ、今日一日ずっと口数少なかったし、あんま笑わなかったもんな。急に連れ出したから怒ってたのかよ…」
 そう言うと、今度は目の下までお湯に沈み込んでブクブクとあぶくを立て始めた。
 初めて見る和泉さんの姿に目を丸くしてしまう。こんな和泉さん、見たことない。
 いつだって我儘で自分勝手で意地悪で、そのくせ俺にはすごく優しい和泉さん。俺の知らなかった子供みたいな可愛い一面に、思わず笑いが込み上げてきて我慢できなかった。
 クスクス笑っていたら、お湯に沈んだままジロリと睨まれたけど、構わず和泉さんに抱きつく。
「和泉さんっ!」
「よ、洋介?」
 少し驚いたみたいな声を上げながら、和泉さんの腕が抱き留めてくれた。
「連れてきてくれて嬉しかったよ。こんなキレイな桜を見られたし、一日中ずっと和泉さんと一緒にいられて楽しかった。ホントだよ」
「じゃあ、なんでテンション低かったんだよ。身形がどうこう言ってたけど、それ以外にもなんかあるんじゃねぇのか?」
 耳の辺りで疑いをたっぷり含んだ声音で聞かれて、ギクリとする。それはそのまま和泉さんに伝わってしまったようで、両肩を掴んで引き剥がされた上に眇めた目で見つめられた。
「そ、それは…まぁ気がかりがない…わけじゃ、ないけど……」
「なんだよ、それ。やっぱり他の誰かと約束が――」
「違うよ!」
 慌てて両手を振って否定する。あらぬ疑いを掛けられて、意地悪されるなんて冗談じゃない。
「そうじゃなくて、ただ…コインランドリーに……」
 バカにされそうで言えなかった、俺の気がかり。
 こうなったら隠すわけにもいかなくて、小さな溜息を吐いてから打ち明けた。
「置いてきた洗濯物が気になってるんだよ、俺」
「ハ?」
 和泉さんは理解できないとでも言いたげに目を瞬いた。
「今朝、コインランドリーに行ったんだ。乾燥まですると時間がかかるから、いつもアパートに戻って終わる頃にまた行くんだけど…。今日は戻ってすぐに和泉さんに拉致られたから、俺の洗濯物どうなってんだろうって気になって――」
 たっぷりと取られた間の後に、和泉さんがポツンと言った。
「おまえんち、洗濯機も無かったの?」
「え、気にするとこ、そこなの? 俺の洗濯物は?」
 しばし顔を見合わせ――二人揃って吹き出した。
 和泉さんはそのまま俺の肩に凭れるようにして大きな溜め息を吐く。
「ハァ、心配して損したな。どうして、そうならそうと言わねぇんだよ」
「だって言い辛かったんだ。和泉さん、すぐにからかうし、意地悪言うし」
「俺はそんなに度量の狭い男じゃないぞ」
「ドヒョウ? 土俵が狭いって、すもうの話?」
「………いい、気にするな。今のは忘れろ」
 瞬間、なにか間違えたんだと気づいたけど、それ以上はなにも答えてくれず和泉さんは俺の肩におでこをのせてクックッと笑い出した。
「おまえは本当に――」
 呟きは小さ過ぎて、絶え間なく湯船に注がれるお湯のせせらぎに紛れて聞こえない。
 なんて言ったのか聞こうと思って和泉さんを見たら髪に桜の花びらがついていて、それがなんだかすごく可愛くて、そっと指先でつまみ上げた。
「和泉さん、可愛いのがついてたよ」
 俺の肩から顔を上げた和泉さんは花びらを見てちょっと顔を顰めたけど、すぐにニヤリと笑った。
「お前も付いてんじゃん、可愛いの。取ってやるよ」
 視線に釣られて下を見れば自分の肩や腕にも花びらがくっついていて、それを取ろうと和泉さんが手を伸ばしてきた。
「うひゃんっ」
 いきなり乳首をつままれて、思わず上げた変な声に和泉さんが笑う。
「ど、どこ触って――」
「あぁ悪ぃな。あんまりにもピンク色だったから、花びらと間違えた」
 絶対にウソだ。わざとらしい。
 体の前を両腕で隠した俺を見て意地悪く笑っていた和泉さんが、腕を掴んで引いてきた。
「本当に花びらじゃなかったか? もう一回見せろよ」
「やだよ、エッチ!」
 二人で押したり引いたりする度に、お湯がちゃぷちゃぷ音を立てて波立つ。水面に散った花びらがゆらゆら揺れて、まるで俺たちと一緒になってじゃれてるみたいだ。
「エッチなのは洋介だろ。俺は誘惑されっぱなしで大変だ」
「そんなの、してない」
「してるだろ。今だって、どこもかしこもこんなに美味そうな色して――」
 つるりと肩から背中を撫で下された。
「…桜色だ、な」
 そのまま抱き寄せられて、拒む間もなく和泉さんの腕の中に閉じ込められた。それだけで俺の体の奥は、きゅんと甘く痛む。
 それが期待からの感覚だってことは自分でもよく分かっていて、本当にエッチなのはどっちだろう、なんて思ってしまった。
 抱きしめてくる和泉さんの髪にまた花びらが舞い落ちてきて、釣られたように見上げると大きな桜の木が夜空を遮るみたいに咲き誇っていた。
 これを見せたくて、ただそれだけでめちゃくちゃとも言えるサプライズを計画するなんて、気障でプレイボーイの和泉さんらしい。
 それでも俺のために、それをしてくれた。
 和泉さんと自分の落差に、一人勝手に引け目を感じていじけてた俺なのに、それを笑い飛ばしてくれた。バカでもなんでも、俺であればいいとまで言ってくれた。
 和泉さんにそこまでさせる価値が自分にあるのかどうかなんて、やっぱり、全然まったく分からない。
 でも和泉さんが俺を想ってくれる気持ちは本当で、それは俺にとっては宝物みたいに大切で嬉しいものなんだ。
 ひらひら、はらはら散る桜は本当に綺麗で、優しく包み込んでくる腕の温もりと相まって幸福感を膨らませてくれる。
「和泉さん…」
 こんな幸せな気持ち、一生知ることなんてないと思ってた。
 包み込まれていた腕を和泉さんの背中に回して、俺からも抱きつく。
 広くて大きな背中も、温かく抱きしめてくれる腕も、こめかみを擽る唇も、和泉さんの全部が愛しくて堪らない。
 一緒に居られるだけで、俺を幸せにしてくれる人。
 意地悪で優しい、俺の――
「和泉さん、好き。大好きだよっ」
 突然の俺の告白に目を丸くした顔に、思いの丈を込めて笑いかける。
 数回瞬きを繰り返した和泉さんは、いきなり俺のくせっ毛をかき回すように頭を撫でてきた。
「俺も洋介が好きだ」
 愛しげに目を細めながらそんなことを言われたら、なんだか無性に照れてしまう。落ち着かなさに視線をあっちにやったりこっちにやったりする俺に、今度は和泉さんが笑いかけてくる。
 それは、それは悪そうな笑みで……
「おい、挑発しただけの覚悟はできてるな?」
「…え?」
 いきなり掬い上げるみたいにお湯から引きずり出され、なにか言う間も、体を拭く間もなく部屋に連れて行かれ、布団の上に転がされた。
「ちょ、和泉さん! 部屋…布団濡れ――」
「そんなもん構ってられるかよ」
 底意地の悪い笑みを浮かべたまま圧し掛かってくる体に、苦笑しながら観念した。
 だって、俺の好きな和泉さんは、こういう人なんだから。

 
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