Novel Library 3

□アイデンティティー ・ クライシス
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  『アイデンティティー・クライシス』


「多田さんの事が好きなんです」
 目の前で華奢な肩を震わせて俯く少年。いや、もう少年という年齢ではないだろう。行く先々の店で顔を合わせた事からいっても未成年でもないはずだ。という事は剛己の歳と大差はない。
 それでもその見た目はまだ高校生といっても通るくらい小柄で細身だ。その体に見合う小さな顔が不意にこちらに向けられた。
 大きな瞳を潤ませて熱っぽい視線で剛己を見つめてくる。
「ずっと、ずっと好きで…だから……一度だけでもいいんです。僕……」
 それを聞いた剛己は、吐息ともため息ともとれる深い息を吐き出した。
「本当に、一度だけでもいいんだね?」
 驚いたように見開かれた瞳が嬉しげに細められて行くのを眺めながら、剛己はその肩をゆっくりと抱き寄せる。体重なんて感じさせない細い体を預けられ、それを軽々と受け止めながら夜の街を歩きだした。
 断るなんてできなかった。
 募らせてきただろう想いを精一杯に伝えようとする姿を見せられたというのに、無下にするなんて無理だ。なぜなら――
(この子は…昔の俺だ……)
 華奢な肩を抱いたまま、剛己は気づかれないようにまた小さくため息を吐いた。


「で?その後どうしたわけ?」
「どうしたって…望み通りホテルに行ったさ」
 行きつけのバーBlack Rose≠フカウンターで疲れ切った表情のままため息を吐くのは多田剛己(ただ こうき)。今年24歳になる入社2年目のサラリーマンで、人目を惹く造作の顔立ちと恋愛対象が自分と同じ男である事を除けば、どこにでもいる普通の青年だ。
「で、ホテルで美味しくいただいたワケか」
「不本意ながら…」
「不本意、ね」
 カウンターの中で薄く笑いながらコリンズグラスを傾ける男を剛己は軽く睨む。
 男の名前は澤木健人(さわき たけと)。この店の雇われマスターで、剛己が高校生の頃に家庭教師をしてもらって以来の付き合いだ。
 剛己にとっては兄のような存在で良い相談相手でもあるが、長年の付き合いでいろいろと知りつくされている分辛口の説教を受ける時もある。

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