Novel Library 3

□ 嘘つきな左手
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  『 嘘つきな左手 』 


 その日、花村亮久(はなむら あきひさ)が目覚めた時の気分は最悪だった。
 ベッドの上でズキズキと痛む頭とムカムカする胸の悪さに、昨晩を思い出して「ハァ」と大きなため息を吐く。
 この具合の悪さは例によって例のごとく二日酔いだ。
 昨晩の所属部署の飲み会で、断り切れずに飲まされた酒の味を思い出して亮久は呻いた。
 先月、誕生日を迎え27歳になったばかりの亮久は社会人5年目、飲酒歴も同じく5年目に入るが一向にアルコールに馴染めないでいる。
 二か月に一度の割合で開かれる部内の飲み会が何より嫌いで参加するのも億劫なのだが、生来の生真面目さから断ることもできず毎回いやいやながらも参加している状態だ。
 部署の上司も同僚も亮久以外は酒豪ばかりだから、付き合いだと半ば強要され毎回酔うまで飲まされるのが常だった。
 ごろりとベッドの上で寝返りを打つと、癖の無い黒髪がサラリと亮久の額を流れる。
 年相応に見られることなどまずない童顔を気持ち悪さに顰める。見た目ならハタチそこそこでも十分通用しそうな亮久は、体の中身も成長不良なのか、飲み会の翌日はいつもこんな風に起き上がることもできず後悔に呻いているのだが…
 それでもギリギリ最後の砦である人事不詳になるのだけは免れてきた。だというのに、とうとうやってしまったのか。
 どんなに頭を巡らせても、亮久には飲み会途中からの記憶がない。当然、自分がどうやって帰ってきたのかも覚えていない。いつもはベロベロになりながらもなんとか自力で帰宅できたし、おぼろげながらも状況を覚えていた。
 が、今回は違う。本当にここまで綺麗さっぱり記憶がないのは過去に例がなく、正体を失くして気づけば朝だったなんて失態は初めてだった。なにかやらかしているのではないかと不安になり、後悔と自責とほんの少しの恨みの念を抱きながら、今日が休みで良かったと心の底から思う。
(頭痛い…)
 気怠い体では起き上がる気にもなれず、再びため息を吐きながら襲い来る頭痛に額を抑えた時、ふと額に違和感を覚えた。
 なんだろうと当てたばかりの左手を見て、亮久は首を傾げた。
(これ…なんだ?)
 亮久はジッと掌を眺めたがそれがなんなのか分からないとでもいうように、まるでピントを合わせるみたいに顔に近づけてみたり思い切り腕を伸ばして遠ざけてみる。
 そんな風に何度見直してみても、その左手には身に覚えのない装飾品が嵌まっていた。
 散々眺め尽くしたてみたもののまったく見覚えのないそれは、亮久の左手薬指にしっかりと嵌められた幅広のシルバーリングだった。
(なんでこんな物が?)
 サイズが合っていないのか、指の付け根で微かにダブついている。
 出所の分からない指輪を気味悪く思いながら抜こうとすると、指の上でクルリと左に回った。 その途端、指輪の表面の細工が現れる。
 それを見て亮久は息を飲んだ。
(こ、このマークって…)
 指輪の幅広な面に施されたそれは、アクセサリーやおしゃれに疎い亮久でも見知ったものだ。
 頭の中に馬車と従者のロゴで有名な某ブランドの名前が浮かぶ。
 もし、これが本当にそのブランドの物であれば、それなりに値の張る物なのは間違いない。
 そんな物が自分の指に嵌っているのがますます奇怪で、気味の悪さから亮久は飛び起きると指輪を抜き取りリビングテーブルの上に置いた。
「なんなんだ、気持ち悪い…」
 亮久は出所の分からない高価な指輪から距離を取るようにキッチンに逃げ込んだ。とりあえずは落ち着こう。昨晩のことを少しでも思い出せば、指輪の謎も解決できるかもしれない。
 そう思い、冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出すと、一息に飲みほした。二日酔いのせいでカラカラだった喉を冷たい水が落ちていく。その冷たさに少しだけ気分が落ちついた。
 それでも視界に指輪が入らないようにリビングを横切り、玄関横の洗面所に向かいながら昨晩の記憶を手繰る。確か、昨夜は同期の宮田と隣り合って飲んでいたはずだ。
 課内で唯一酒に弱い上に、あまり人付き合いが上手い方ではない亮久は、飲み会の席ではいつも端の方に目立たないようにして座る。
 でも昨日は隣に宮田がいたせいで代わる代わる上司や同僚が酒を注ぎに来て、係長に酒を注がれた辺りまでは記憶にあるがそれ以降はもうあやふやだ。
 なんでもいいから思い出そうと冷たい水で顔を洗い、回らない頭をフル回転されてみても結局それ以上は何も思い出せない。
 失くした記憶と知らない指輪の存在はモヤモヤと亮久の胸の内で燻り、まるで喉に魚の小骨でも引っかかったような蟠りばかりを感じさせる。
 洗面台の鏡の中では、印象の薄い童顔が途方にくれている。くるくると丸い瞳は小動物を思わせるつぶらなものだが、今は頭痛と吐き気と思考に沈んでいるせいで半目になり、地味顔に拍車をかけていた。
(昨夜、いったいなにがあったんだよ……ていうか、気持ち悪い……)
 気味の悪さと気分の悪さのダブルパンチにしゃがみ込み、「ううっ」と呻いた時だった。玄関のインターフォンがいきなり鳴ったから、亮久は驚いて飛び上がる。
 あまりにもビックリしたせいで、亮久はとっさに玄関のドアを開けてしまった。その後訪れる、予想だにもしなかった未来がそのドアの向こうにいるとも知らずに…


 
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