ハルの部屋を出てからの俺は半ば思考が停止したまま、どこをどう歩いて帰って来たのかも分からず日付が変わる頃に家に辿りついた。
誰かと話す気力なんてあるはずもなく、真っ直ぐ自室に向かうために階段を上る。二階の廊下に出たところで、不意に手前の部屋のドアが開いた。
「あ…おかえり、遅かったんだな」
唐突に現れたユキに驚くより先に視線を逸らす。
「ん……」
ユキの顔を真正面から見られないのが習慣化した俺の視線は、深く考えずともいつものように首の辺りで止まった。
「っ…」
そこに、もう薄くなりつつはあったものの僅かな鬱血の痕を見つけてしまい、思わず眉根が寄る。
それが意味するものなんて考えるまでもない。所有権を主張するようなそれは小さくとも、ユキが誰のものであるのかを俺に突き付けている気がした。
現実そのもののそれから目が逸らせない俺の鼻先を、不意にオレンジ香りが掠めた。
こいつ、また風呂にバスキューブ入れたな。ちょっと少女趣味なユキの好みは昔から変わらない。
「ルキ?」
佇んだままの俺を訝しんだのか、ユキが首を傾げて俺を呼ぶ。
どうしてだろう。考えなきゃならないことがあるはずなのに、俺はなに一つ思い浮かべられないでオレンジの香りを感じながら小さな痕を見つめたままだ。
「……ルキ? どうしたんだよ」
いきなりユキに両肩を掴まれて、のろりと視線を上げた。
ユキの顔を真正面からまともに見たのなんて、いったいいつぶりだろう。
だけど俺が見たのはユキであってユキじゃない。
そこには鏡の中の俺≠ェ、心底驚いた表情で俺を見ていた。
「…なにが?」
「なにがって…ルキ、酷い顔してる」
「酷い顔ってなんだよ。同じ顔してんだ、だったらおまえだって――」
「そういうコトを言ってるんじゃないよ。 いいから、ちょっと来い」
グイッと肩を押されてユキの部屋に押し込まれた。
ユキの部屋に入るのもずいぶんと久しぶりだ。
そんなどうでもいいコトを考える俺をユキは強引にベッドに座らせた。
「なにかあったのか?」
「別に、なにも……」
そうだ。別になにもない。
ただ、ハルとの関係に終止符を打ったってだけで…いや、打たれた…のか。
「なんにも無いわけないだろ? 誤魔化したってダメなんだからな。他の人には分からなくても俺には分かる」
「ねえよ……ただ自分が無力なガキだって、思い知っただけだ」
そうだ。俺は無力だった。
俺はずっとハルの存在に助けられていたのに、その事実を上手く伝えるコトはもちろん、ハルのためになにもしてやれなかった。
十六歳の俺じゃ子供過ぎて、ハルは泣くコトもできなかったんだろう。
今にも泣きだしそうなくせに、我慢ばかりしていたハルの顔を思い出してギュウっと胸が痛くなる。
「なぁ…ルキ、俺…話くらいなら聞くよ?」
心配げな顔で下から俺を覗き込むように見上げてくるユキになぜだか無性に苛立ち、つい声を荒げてしまう。
「うるせえな、余計な心配なんて迷惑だ。俺のコトなんてほっとけよ。ユキは…南雲のコトだけ考えてればいいだろ」
完全な八つ当たりだと自分でも分かっているだけに、余計に情けなさが募る。
自分の不甲斐無さをユキにぶつけてなんになるんだ。
そう思っているのにユキから視線を逸らしたまま部屋を出で行くコトさえできない俺の肩を、ユキはギュッと掴んで声を荒げた。
「心配してなにが悪いんだよっ!」
普段見たコトのないユキの剣幕に驚き、顔を上げた俺は息を飲んだ。
「ユキ…おまえ――」
ユキは泣いていた。
瞬きもしないで、大粒の涙をボロボロ零して泣いていた。
「なん、で…?」
「わ、分かんねえよ、でも…ルキが泣かないから……そんな、泣きそうな顔してるくせに」
泣きそう? 俺が?
「ルキって子供の頃からそうだよな。本当は泣きたいくせに、絶対人前で泣かなくて…だから代わりに俺が……くそっ、いつものだよっ」
いつもの――
グイッと目元を拭ったユキの言葉に思い出す。
子供の頃、どちらかが怪我をするともう一人も同じところが痛くなる、なんて双子にはよくある現象を俺たちも散々経験していた。
小学生の頃にこんなコトがあった。校庭で遊んでいた俺は鉄棒から落ちて腕を骨折した。同じ頃、教室で遊んでいたユキが突然泣き出して騒ぎになった。俺が病院に運ばれ治療が済むまでユキはずっと泣きやまなかったのだと後から知った。
親にこっ酷く叱られて家から追い出された時もそうだった。
玄関先に蹲った俺は決して泣かなかったけど、家の中に居たユキは叱られたわけでもないのに俺が許してもらえるまでずっと泣き続けていたらしい。
はっきり口に出したコトはないけど、俺は…いや俺たちは分かっていた。ユキは泣かない俺の代わりに泣いていたんだ。ずっと…子供の頃から。
それが単なる偶然なのか、双子故の現象なのかなんて正直俺にも分からないけど、それは確かにあったんだ。
でも成長するにつれて数は減ったし、そんなシンロクニシティはもう無くなったと思っていたのに、ユキは今、泣いている。
理由もなにも分からないだろうに、俺の代わりに――
なら俺は、今泣きたいんだろうか?
泣きたいくらい悲しいんだろうか?
そんなに悲しむくらい、ハルのコトを?
自分の気持ちなのに分からない。
「お、おまえのせいだからなっ…ルキが、泣かないっ、から…」
俺のせい? 俺が、泣きたいのに泣かないから?
ぐずぐずと泣き続けるユキを見て、不意に言いようのない感情が込み上げてきた。
――なんだ、そうだったのか…
ユキと俺はまだ、こんなにも一つだったんだ。
俺のユキへの感情と、ユキの俺への感情の差異に気づいた時、俺は双子の同一性を否定した。DNAまでそっくり同じだからと言って、俺たちがまったくの別人格だという当たり前のコトを証明したくて堪らなくなった。
ユキに俺を、小澤流輝を双子の片割れではなく一個人として見て欲しかったから。ユキが好きで、ずっと一緒に居たいと思ったから。でも――
俺たちは生まれる前から一緒だった。
どんなに否定しても元は一つだった俺たちは、成長しようが離れようが一生ずっと双子なんだと、今そう気づいた。
「ユキ、泣くな…泣くなよ」
「ルキこそ…なにがあったのか知らないけど、辛いのに我慢なんてすんなよ。俺…もうルキとはこういうの、無くなったのかなって思ってた……それ、ちょっと淋しかったんだ。でもやっぱり俺たちは双子で、理由なんて分からなくてもルキの感情みたいなの、伝わってくんだよ。いつまでも子供の頃のままじゃないんだろうけど、それでも俺たちが一つなのは変わらないんだ。ルキと俺が双子なのは一生もんなんだからな」
ちょっと支離滅裂気味だけど、泣きながら声を張り上げるユキにキュッと胸が締め付けられる。
なんだよユキ、おまえも…同じコトを考えていたんだな。
「ユキ……」
そうか…
願った想いと形は違っても、俺たちは死ぬまで一緒でいられるのかもしれない。
「俺さ…おまえと双子で良かったよ、ユキ」
「…なに、急に……そんなの俺だって同じだよっ」
高校生になってもワァワァと泣くユキが愛しくて、俺はソッとユキの肩を抱き寄せた。
ユキの温もりを直接感じるのは久しぶりだ。鼻をくすぐるオレンジの香りと決して柔らかくはない体の温かみを感じても、理性を総動員させる必要はなかった。
動かない欲求に俺はもう、本当の意味でユキを諦められていたのだと知る。
それと同時に思う。
こんな風にハルも思う存分、気の済むまで泣かせてやりたかった。
一人じゃないと分からせてあげたかった。
胸に燻るのは後悔以外のなにものでもない。
胸を締め付ける苦しさと痛みと、どうしようもない虚無感の正体が今ようやく分かった気がした。
そうだ…俺はたぶん―――