shortstory
□笑顔の裏側
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まだ生徒で賑わう教室を後に、廊下を歩きながら窓越しの陽光に欠伸が出た。
「三谷、明日は宿題持ってくるの忘れるなよ」
後ろからかかった声はお堅いクラス委員長だ。
委員長の注意に声を出すのも面倒で、三谷は背を向けたままプラプラと手を振った。
宿題は忘れたのではなく意図的にやっていないのだが。
ふと石の音が耳に触れる。
それは現実に響いた音ではなく脳裏によぎった記憶の中での音。
囲碁部。
進藤ヒカルにしつこくつきまとわれ、なんだかんだと大会にまで出たのは昨日のようで遠い記憶。
最初はくだらないと思った。
ヒカルに会うまで三谷にとって囲碁はたんなる小遣い稼ぎでしかなかく、何をそこまで真剣になるのかと内心馬鹿にしていた。
だが囲碁部で活動して、大会に出て、ヒカルたちと関わって、自分のなかで何かが満ちていくのを心地よく思い始めていた。
でもそれも長くは続かなかった。―――ヒカルがプロの道を選んだあの時に。
プロはアマの大会には出られない。
それでもヒカルはプロの道を選んだのだ。
囲碁部の連中は最初こそ動揺したものの、最終的にはヒカルの背中を押した。
俺にもそうしろって?
冗談じゃない。
勝手に引きずり込んで勝手に辞めていく。
この行き場のない気持ちはどこへぶつければいい?
もちろん囲碁部はすぐに辞めた。
でも何も晴れない。
囲碁部を辞めてからしばらくは避けるように理科室には近づかなかった。
だが一度だけ、足を向けたことがあった。
石の音。騒ぐ部員の声。―――進藤が、いた。
ああこれが既視感か、と思った。意識するよりも先に体が動いて踵を返していた。
何故自分があそこへ行ったのかは今でもわからない。
もう終わったはずのあの場所に今更何がある。
それでも頭の隅に焼き付いて離れない。
鬱陶しく脳裏にちらつく理科室、碁盤、音、―――部員分のノート。
それを見つけたのは最近だ。理科の授業中、棚を開けると数冊のノートがあった。
見るとあかりの字で当然のように三谷の名も書かれていた。
それから気が向いた時だけ囲碁部に顔を出すようになった。
あれだけのことで、とも思ったが、足が自然とそこへ向かう。
思い出すのは三面打ちでのヒカルとの最後の対局。
三面打ちだった対局に三谷は勝てなかった。
自分でも意外だったのは、悔しい腹立たしいなどという感情よりも、負けた事実による敗北感が先立ったことだ。
正に蚊の鳴くような呟きで、自身にしか聞こえない、発した当人しか知らない言葉。
―――『負けました』
それが三谷の精一杯だった。
いや、それだけが認められることだった。
1人勝手に辞めていくこと、プロを選んだこと、すべてを置いていくこと、三谷は認められなかった。
“負けた”こと以外は。
今日はこのまま帰ろうか。
天気の良い日だから、カーテンをあけて陽に当たりながら寝るのはかなり気持ちよさそうだ。
だが意に反して足は校門とは別の場所へ向かう。
理科室。
気づいたらここに立っていた。
ドアが開いていることに気がつき、そっと顔を覗かせる。
視界にその光景が入った瞬間目を瞠った。
―――藤崎が、泣いている。
笑っている印象しか無かった。しつこくて懐っこい笑顔に、ゆれる髪。
好きであろう幼なじみが離れていっても碁を投げ出さなかった強い眼が濡れている。
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