shortstory

□悪夢
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 ―――悪い夢を見た。

 大嫌いで大好きなアイツが消える、あの時の夢。

 正確に言えば消えるその瞬間を晶は見ていないが。

 だが夢でははっきりと光となって消えていく巧海を見た。

 どこまでも穏やかな笑顔で、さようならと、ありがとうと、晶に言って消えた。

 あの時と同じように気絶してしまえれば良かったのに、と消えゆく巧海を見ながら思った。

 事実と違うからこそ逆に現実味が増す。

 自分が事実と信じていた事実が夢で、本当は巧海は消えてしまったままなのでは、と。

 目を覚ましてすぐに仕切りのカーテンを力任せに引いたが、テープの向こうに巧海の姿はない。

 目覚めて巧海がいないことは別に珍しいことではないのだが、どうしようもなく胸がざわついた。

 ドクリを音をたてる心臓が痛いほどで額に冷や汗が滲む。

 ベッドから足を下ろして触れた床が冷たい気がしてまた胸がざわついた。

 洗面所のドアを開けるが巧海はいなかった。

 またそれが晶の不安を煽る。

 馬鹿げていると理性ではどこか他人ごとのように思う自分がいるのに。

 それでも白い紙に落とされた黒いインクのように染みついた晶のトラウマが底知れぬ恐怖へと誘(イザナ)う。

 部屋のドアノブを掴む手が震えて上手く回せず、そのことにまた焦って不器用にドアを開けた。

 はやく、見たい。

 あの笑顔が、優しい声を、はやく聞きたい。

 悪夢を見た日はいつもこうだ。

 巧海がいないことが現実な気がして。

 いない、いない、いない。

 幸せだった今までが夢のようで。

 何も触れていない冷たく寂しい手が全てだと誰かに突きつけられているような感覚になる。

 巧海、巧海、巧海。


 呼んだら返ってくる声。

 そんな当たり前が奪われてしまったかのようなあの時の既視感がフラッシュバックする。

「……っ」

 嫌だと頭の奥で悲痛に暮れる自分が悲鳴を上げて狂い叫ぶ。

 どんなに冷静な自分が宥めようと聞かない。

 あの声じゃないと駄目だと、姿を視界に映さなければ駄目だと。

 まるで母親をもとめる赤子のように駄々をこねる。


 共同の調理室。

 痛む頭と胸を抱えながらドアを開けようと手を伸ばす。

 だが躊躇う。

 ―――もし、もしこのドアを開けて巧海がいなかったら。

 開けてしまえば全てが終わるのに、有り得るはずのない不安に駆られて体が固まる。

 細かく震える手でドアノブを掴む。

 開く扉に心臓が跳ねるように音をたて動いた。



「―――晶くん。おはよう」



 頭より先に体が動いた。

 いつもと変わらずピンクのエプロンをして笑う巧海。

 調理室に充満する朝食の良い香り。

 不安も恐怖も吹き飛ばす、そんな幸せな空間。

 それでも足りないと体が巧海を求める。

 首に両腕を絡め抱きしめる。

 触れられたことにまた安堵した。

「……晶くん?」

 晶はいつも人に見られることを危惧して、少しでも見られる危険性のある場所で巧海に触れられることを嫌がる。

 その晶が共同の場で抱きついたのだから巧海が心配そうな声を出すのは当然だった。

「また、見たの……?」

 腰に回された巧海の腕が晶を抱きしめる。

 耳に囁かれた言葉に、顔を肩に埋めるように頷く。

 ―――悪夢を見たのは、今日が初めてではない。

 そのことは巧海も知っている。

 悪夢を見た晶は必ず黙って巧海を抱きしめるから、巧海も晶が悪い夢を見たのだとすぐにわかる。


 ―――大嫌いと、嘘をついたのは、大好きだったから。

 なのに巧海はあのとき晶を残して光になって消えた。

 晶は力いっぱいに巧海を抱きしめる。

 いつものように加減をする余裕がない晶の力はたぶん巧海には苦しいだろう。

 それでも巧海は何も言わず腕の力を強めてくれる。


「……あ、わり。ここ共同か」

 共同場はいつ他の生徒が来るかわからない。

 ようやく頭が正気になって巧海から離れようとすると腕を引かれた。

「巧海?」

 晶の呼びかけには答えず、コンロの火を消して鍋に蓋をする。

 引かれるままに調理室を出て向かった先は2人の部屋で、入るなりドアを閉めて壁に押し付けられた。

「……っ、」

 強く合わせられた唇に声が出ない。

 しばらく付けられたままだった唇はやがて啄むようなキスに変わる。

 自然と力が抜けると下唇を舐められ思わず口が開き、狙っていた舌が口内に滑り込む。

 いまだに慣れない感触に腰を引くが壁に阻まれ、無意味な抵抗に終わった。

 堪えきれず甘い声が小さく漏れて腕に力を入れ巧海の胸板を押すが、巧海は全く動じることなく、むしろ声を抑えさせないかのようにせき立てる。

 いつもなら、恥じらいながら巧海に流されるだけだ。

 それでも今は違った。

 胸板にやっていた両腕を躊躇いながらも巧海の首に伸ばしてすがりつくように力を込める。

 一瞬驚いたように動きが止まったが、再び激しい口づけが注がれた。

 たどたどしく晶も応えようとしたが、それをも呑み込むような巧海のキスに結局は翻弄されるだけだ。

 言葉はない。

 大丈夫だとも、ここにいるとも、好きだとも、なんの言葉もない。

 それでも今の晶には一番の安定剤だった。

 言葉は絶対ではないから。

 冷めた体も渇いた心も直接触れて教えてほしい。

 今この瞬間が現実で真実で事実で、自分が今感じている温もりが全てだと信じていいと教えてほしい。


 ポタリとひと粒の涙が床に落ちた。


「泣いてるの……」

 いつの間にか離れた唇はまだ温い。

 瞳に溜まってはこぼれ落ちる涙を巧海が優しく拭う。

「……泣いてるから、平気なんだよ」

 安心してるから、泣けるのだ。

 怖いとか辛いとか寂しいとか、今までは素直になんて言えず感情を押し殺してきた。

 今でも“素直”がちゃんとできているかは定かではないが、それでも泣いたり求めたりすることはできるから。

 涙は深い悲しみを流してくれる。

 深いからすぐに全てが流れることはないけれど、きっといつか全て流れる。

 そっと目尻に柔らかいモノがあたって思わず目を閉じた。

「しょっぱいね」

 涙を舐めた巧海がイタズラっ子のように笑う。

 ほんわりと胸が温かくなるのがわかった。

 あんなに不愉快で大嫌いだった巧海の笑顔が今ではこんなにも心を満たす。


「……泣いたら腹減った。飯なに?」

 まだ赤い目のまま笑って言うと、巧海も安心したように顔を綻ばせた。

「今日は洋食。スープとパンとフルーツとヨーグルトとサラダとベーコンと……卵、目玉焼きとスクランブルどっちがいい?」

「だから多いっつーの」

 相変わらずの品数に呆れつつも「スクランブルがいい」と言った晶に巧海が笑顔で頷く。


 悪夢を見ても、キミがいれば大丈夫。

 笑ってキスして、

 バカみたいな量の朝食をテーブルに並べて。

 スープの香りと窓から漏れる日差しに名も知らぬ小鳥の歌声。

 最悪な目覚めは穏やかな朝で消えてしまう。


 いつもと変わらぬ朝に晶はいつの間にか夢のことは忘れていた―――。










FIN.




不安な夜とか不吉な目覚めには、たっぷり甘やかしてあげるのが1番の処方箋。なんてね(笑)
 

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