TENDER LOVEU
□Chapter 41 -side.minho-
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ピアノ調律師。
彼女が収録前のスタジオに姿を現したのは、その肩書きゆえだった。
黒いチューニングハンマーに絡む、白い手。
頑ななピアノ線を、ミクロ単位で調節するその指先。
時々目を閉じて、音の高低を感じ集中している横顔。
広大なスタジオに置かれても尚、その存在感と重厚感を放つことを忘れないグランドピアノを、あの場で、彼女だけが超越していた。
線やハンマー、全ての工程を経て。
達成感に包まれた顔で。
愛しそうにピアノに触れる彼女。
何かを、呟く。
すぐさま凛々しい表情に戻って、調律の完了をディレクターに告げに行く。
俺は、スタジオを去る彼女を追った。
誰にも、彼女を追っていると気付かれないように。
焦った様子を晒さずに、でも内心は、彼女が屋外に出てしまえば終わりだと焦って。
早く、早く。
アリスが、うさぎを追うのに。
うさぎが、アリスを追っているみたいな。
不思議の国が、建てられ始めた瞬間。
スタッフが数人、忙しなく働いている廊下の向こう。
彼女が、白いワンピースを淡く揺らして、角を曲がる。
今、スピード上げないと。
そう思って駆け出して。
角を曲がった瞬間。
「私に何か、用ですか?」
彼女が俺を向いて、見上げて。
イタズラに微笑んでいた。
「あぁ・・・えっと・・・」
何かあるならどうぞ、でもないんでしょ?というふうに笑う。
「調律、すばらしい職人技だなと思いました。」
「いえいえ、私なんかはまだまだです。」
「でも、洗練されているなと感じました。」
「ありがとうございます。」
社交辞令的な会話を、続ける。
すぐに終わる予感のする会話は、俺を焦らせる。
あぁ、聞かなきゃいけないことがある。
「さっき、ピアノに向かって、何を言ってたんですか?」
すると、彼女の目が、見開かれる。
多分、1mm位だけ。
彼女は、また、捉えどころなく微笑んで。
「よく、見てるんですね。」
“いや、偶然見かけて。”
とか何とか、言えたはずだけど、嘘は見抜かれる。
あんなに微妙な音のずれまで、見抜ける人なんだ。
俺は、彼女を真似て笑う。
「でも、何を言ったのかは内緒です。」
「そう言われれば、逆に気になりますね。」
「それは、あのピアノと私の秘密です。」
彼女は笑って、言う。
どうして。
追いかける足を持っていて。
喋りかける言葉を持っていて。
それでもあの微動だに出来ないピアノに、勝てないなんて。
それより何より。
あの重厚なピアノに、嫉妬している自分。
苦笑もの、だ。
「言葉は、」
彼女が唐突に喋り出す。
俺は、その目を見つめる。
「対面している相手とだけ、本当の意味で共有できるものです。」
「共有・・・」
「他言すれば、美しさも、流れ出て褪せてしまうので。」
ピアノと対面した、彼女は。
何も人間だけじゃなくて、相手が楽器でも・・・いや、彼女にとって、人間と楽器の区別は、俺たちよりもっと曖昧なんだろう。
それは、俺の知らない世界。
届かないものほど、美しく映る世界。
そのとき、遠くから聞こえた。
「ミノくん!衣装チェックとメイクの番よー。」
「はい、今・・・」
行きます、って。
言いたくないとか、思ってしまう俺は。
現実を取り戻す声を、少し恨む。
「頑張ってくださいね、収録。」
彼女が、身を翻そうとする。
「あの・・・!」
呼びとめてしまう。
「俺と共有した言葉は、どうですか・・・」
同じように。
他言しないことに意味があるような、重さがありましたか。
彼女は意味深に笑う。
「それは、何とも言えません。」
その言葉に、俺は気持ちが落ち込むのを悟る。
「だけど、」
次の瞬間。
一気に、光を見つける。
「これが始まりかも知れません。」
そして彼女は、手元のバッグから長方形のしっかりした紙を取り出す。
万年筆のキャップを、唇に挟んで。
壁に紙と、ペンを押しつけ、走り書きする。
凛々しさを。
こんなふうに、想い知っては。
彼女が俺に渡したカードは、とあるバーのカードで。
住所と、アクセスと、電話番号と。
・・・裏には、彼女の名前と。
「そこでたまに、ピアノを弾いています。」
「ピアニストなんですか。」
「いや、本業はこっちです。」
彼女は、調律道具の納まったバッグを指す。
「いつ、弾いてるんですか。」
「私もよく分かりません。」
「それじゃあ・・・」
「もう一度逢えたら、縁があるんです。」
彼女は万年筆をバッグに刺すように入れながら、凛とした声で言う。
逢えなかったら、この想いはどこへ行くんだ。
「それか、あなたが」
彼女が、俺の横を通り過ぎる。
「その縁を、創ってみてください。」
心の焦がれる、挑戦状。
俺に残されるのが、あのピアノの音色と、凛とした横顔と、この名前だけで終わってしまわぬように。
その後ろ姿を、眺める。
これを、始まりとしたい。
俺は、控室に向かって歩き出した。
分厚いカードの感触が、俺の心を撫でるようだった。
..to be continued..