TENDER LOVEU

□Chapter 41 -side.minho-
1ページ/1ページ


 ピアノ調律師。

 彼女が収録前のスタジオに姿を現したのは、その肩書きゆえだった。

 黒いチューニングハンマーに絡む、白い手。
 頑ななピアノ線を、ミクロ単位で調節するその指先。
 時々目を閉じて、音の高低を感じ集中している横顔。

 広大なスタジオに置かれても尚、その存在感と重厚感を放つことを忘れないグランドピアノを、あの場で、彼女だけが超越していた。

 線やハンマー、全ての工程を経て。
 達成感に包まれた顔で。
 愛しそうにピアノに触れる彼女。
 何かを、呟く。

 すぐさま凛々しい表情に戻って、調律の完了をディレクターに告げに行く。

 俺は、スタジオを去る彼女を追った。
 誰にも、彼女を追っていると気付かれないように。
 焦った様子を晒さずに、でも内心は、彼女が屋外に出てしまえば終わりだと焦って。

 早く、早く。

 アリスが、うさぎを追うのに。
 うさぎが、アリスを追っているみたいな。

 不思議の国が、建てられ始めた瞬間。

 スタッフが数人、忙しなく働いている廊下の向こう。
 彼女が、白いワンピースを淡く揺らして、角を曲がる。

 今、スピード上げないと。
 そう思って駆け出して。

 角を曲がった瞬間。

「私に何か、用ですか?」

 彼女が俺を向いて、見上げて。
 イタズラに微笑んでいた。

「あぁ・・・えっと・・・」

 何かあるならどうぞ、でもないんでしょ?というふうに笑う。

「調律、すばらしい職人技だなと思いました。」
「いえいえ、私なんかはまだまだです。」
「でも、洗練されているなと感じました。」
「ありがとうございます。」

 社交辞令的な会話を、続ける。
 すぐに終わる予感のする会話は、俺を焦らせる。

 あぁ、聞かなきゃいけないことがある。

「さっき、ピアノに向かって、何を言ってたんですか?」

 すると、彼女の目が、見開かれる。
 多分、1mm位だけ。

 彼女は、また、捉えどころなく微笑んで。

「よく、見てるんですね。」

“いや、偶然見かけて。”
 とか何とか、言えたはずだけど、嘘は見抜かれる。
 あんなに微妙な音のずれまで、見抜ける人なんだ。

 俺は、彼女を真似て笑う。

「でも、何を言ったのかは内緒です。」
「そう言われれば、逆に気になりますね。」
「それは、あのピアノと私の秘密です。」

 彼女は笑って、言う。

 どうして。
 追いかける足を持っていて。
 喋りかける言葉を持っていて。
 それでもあの微動だに出来ないピアノに、勝てないなんて。

 それより何より。
 あの重厚なピアノに、嫉妬している自分。
 苦笑もの、だ。

「言葉は、」

 彼女が唐突に喋り出す。
 俺は、その目を見つめる。

「対面している相手とだけ、本当の意味で共有できるものです。」
「共有・・・」
「他言すれば、美しさも、流れ出て褪せてしまうので。」

 ピアノと対面した、彼女は。
 何も人間だけじゃなくて、相手が楽器でも・・・いや、彼女にとって、人間と楽器の区別は、俺たちよりもっと曖昧なんだろう。
 それは、俺の知らない世界。
 届かないものほど、美しく映る世界。

 そのとき、遠くから聞こえた。

「ミノくん!衣装チェックとメイクの番よー。」
「はい、今・・・」

 行きます、って。
 言いたくないとか、思ってしまう俺は。

 現実を取り戻す声を、少し恨む。

「頑張ってくださいね、収録。」

 彼女が、身を翻そうとする。

「あの・・・!」

 呼びとめてしまう。

「俺と共有した言葉は、どうですか・・・」

 同じように。
 他言しないことに意味があるような、重さがありましたか。

 彼女は意味深に笑う。

「それは、何とも言えません。」

 その言葉に、俺は気持ちが落ち込むのを悟る。

「だけど、」

 次の瞬間。
 一気に、光を見つける。

「これが始まりかも知れません。」

 そして彼女は、手元のバッグから長方形のしっかりした紙を取り出す。
 万年筆のキャップを、唇に挟んで。
 壁に紙と、ペンを押しつけ、走り書きする。

 凛々しさを。
 こんなふうに、想い知っては。

 彼女が俺に渡したカードは、とあるバーのカードで。
 住所と、アクセスと、電話番号と。

 ・・・裏には、彼女の名前と。

「そこでたまに、ピアノを弾いています。」
「ピアニストなんですか。」
「いや、本業はこっちです。」

 彼女は、調律道具の納まったバッグを指す。

「いつ、弾いてるんですか。」
「私もよく分かりません。」
「それじゃあ・・・」
「もう一度逢えたら、縁があるんです。」

 彼女は万年筆をバッグに刺すように入れながら、凛とした声で言う。
 逢えなかったら、この想いはどこへ行くんだ。

「それか、あなたが」

 彼女が、俺の横を通り過ぎる。

「その縁を、創ってみてください。」

 心の焦がれる、挑戦状。
 俺に残されるのが、あのピアノの音色と、凛とした横顔と、この名前だけで終わってしまわぬように。

 その後ろ姿を、眺める。
 これを、始まりとしたい。

 俺は、控室に向かって歩き出した。
 分厚いカードの感触が、俺の心を撫でるようだった。

..to be continued..

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ