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□淡い恋の溶けた先
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仕事帰りに立ち寄った近所のスーパーで、野菜ジュースを前にして立ち止まる。
1日分の野菜にするべきか、今まで通りカゴメの野菜ジュースにしておくべきか。しばらく悩んでいたら急に名前を呼ばれた。
振り返るとスーツ姿の若い男性。聞き覚えがあるどころかしっかりと記憶に焼き付いているその声と表情でそれが誰だかすぐにわかってしまう。


「矢野くん、」

「久しぶり」

「え、びっくりした、久しぶりすぎて、この辺に住んでるの?ていうかスーツだ!かっこいいね、似合ってる、何の仕事してるの?」


ふ、と矢野くんに笑われてやっと浮かれて喋りすぎた自分に気がついた。ひとつずつ質問に答えてくれる彼の表情を見ていたら、蓋をしたはずの中学時代抱いていた淡い恋心が溢れだしそうで怖くなる。最後まで伝えることができなかったから余計にそう思うんだろうか。
言葉を発しようとした瞬間にふと視界に入った彼の左手が持つカゴの中にはビールがふたつ。もしかして、と嫌な予感が頭を掠める。ああどうしよう、言ってしまおうか、言うまいか。


「立ち話もなんだし、よかったらその辺で飯でも食わね?」

「え、」

「あ、もしかしてもう飯食った?」


違う、と言いたくて首を大げさに振る。言おうか迷っていたことを矢野くんが言ってくれたので驚いて子供みたいな動作をしてしまった。


「あの、でも彼女さんとか、怒らない?」

「そんなんいねーし」

「そうなの?」


普段通りに返事をしたつもりでも自然とにやけてしまう口角が隠せない。
調子に乗って「うちで食べない?よければ作るよ」なんて言った後に矢野くんの少し驚いた顔と数秒の沈黙。ああしまったやっちゃったと後悔してももう遅くて、浮かれすぎた自分に右ストレートをお見舞いしてやりたくなった。


「いいの?俺、後で彼氏から殴られたりしない?」

「いない!彼氏なんて全然いない!」

「じゃあ、よろしく」


そんなやりとりの後、材料やお酒やおつまみを買ってスーパーを出る。貸して、と言われ袋を奪われる瞬間に軽く触れた指を特別に意識してしまうのは自分だけなんだろうか。
マンションまでの狭い歩道を歩きながら彼の背中を見つめていたらふと振り返った矢野くんが昔と同じ顔で笑う。どちらかというとクラスの中でも大人びた存在だった彼の時折見せる笑顔が歳相応に可愛らしくて見るたびにドキドキさせられた。
他愛ない話をしながら歩く夜道がこれまでにないくらいに幸せで、一歩進むたびその微かな振動で閉じていた蓋が開いてしまいそうだ。落ち着け、と自分に言い聞かせながら少し目を伏せてまた開くとやっぱりそこにはずっと好きだった人の背中があって、私は溢れだしそうな気持ちを押さえるのに必死だった。
きっと彼はそんなこと、ちっとも知らないだろうけど。







淡い恋の溶けた先







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