夏目
□化ける
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「千尋、森に行かぬか?」
最近のニャンコ先生はよく千尋を散歩に誘ってくれる。
彼曰く散歩ではなくパトロールなのだけれど、しばしば七辻屋の和菓子を持ってきているあたり真面目に巡回する気はないらしい。
「いいよ。行こ」
千尋は千尋で散歩以外の何物でもないと思っている。
ニャンコ先生ほど七辻屋フリークでもない千尋がクッキーやらケーキやらのお菓子を持って行くこともあるけれど、今日は手ぶら。
斑は千尋がニャンコ姿よりも本来の姿を気に入っているのを知ってこういう時には美しい白銀の獣の姿に戻ってくれるので、千尋としてはこの時間が大きな楽しみの一つなのだ。
「……ふむ、この辺りでいいだろう」
道中、不意に斑が立ち止まった。
「なに?」
長い髪を揺らして斑の顔をのぞき込む千尋。
獣の瞳が大層愉快そうに細められる。
「面白いものを見せてやる。目を瞑っていろ」
「…?うん」
戸惑いはしたが言うとおりに瞼を閉じた。
なんだろう、サプライズ?
別に誕生日でもないしなにかの記念日でもないし…。
思考を巡らせていたら、どろん!と変化の術を使ったような気配がした。
どうしたのと言おうとするのと同時、なにかに引き寄せられたかと思うと、少し冷たいものにぎゅっと包まれる感覚。
「…………っ!?」
驚いて目を開ける。
視界に入ってきたのは色素の薄いふわふわの髪と学生服の襟。
「……な、夏目?…なんでっ……!?」
「くくく」
してやったり、というような笑い声と共に一旦解放される。肩に手は置かれたままだが。
目の前の姿を改めて観察してみるが、やはり夏目だ。しかし声は斑。
なるほど、先程の変化の術はこれらしい。
斑がやたらと機嫌よさそうにしているのでどう反応したらいいか迷ったのだが、率直な感想をぶつけることにする。
「斑……なにしてんの」
「見ての通りだ。人の姿なら触れられる。私の変化の術もなかなかのものだろう」
そういえば以前、どうすれば人の子に触れられるのかなどと言っていたっけ。
「それでなんで夏目の姿に…」
「ガン見したことがあるのはレイコか夏目くらいだからだ。女子高生姿のほうが良いのか?」
「……それは絵的にすごくイヤ」
「そう思ってこちらにしたのだ。不満はないだろう?」
「だから、その……そもそも根本的になんか違うっ…!」
はー…と頭を抱えると、その頭上からゴキゲンな含み笑いが降ってきた。
むっとして見上げる千尋。
そこではたと気付く。千尋と夏目は少し夏目のほうが勝っているくらいでほとんど身長が一緒なのに、斑が化けた夏目はそれよりこぶし一つ分くらい背が高い。見上げる高さに胸が落ち着かない。
こちらを見下ろしてくる視線と目が合った。
瞬間、ドキリとした。
夏目と同じと思ったらとんでもない。
斑の眼だ。鋭く威厳に満ちた眼差し。どこか嗜虐的な。
そういう性癖はないつもりだけれど、被支配欲をかき立てられるのは何故か。
「どうした?顔が赤いぞ」
「っ……!」
ふ、と斑が眼を細めた。
妖しい色香の漂う微笑。
目が離せない。
千尋の肩を掴んでいた手に力が込められ、再度引き寄せられる。
反射的に抵抗して斑の胸に手をついたが、それごと抱き込まれてしまった。
「黙って大人しくしていろ」
「……っ、う……」
耳元で低く囁かれて、まるでその声に力を吸い取られたように抵抗する気が失せた。
抱き締めてくる腕の力は細い見掛けの割には強く、化けていても大妖怪は大妖怪なのだと思い知らされる。
千尋の手は人間なら心臓がある位置の真上に添えられていた。鼓動は聞こえてこなかった。
風はなく、木々は沈黙。鳥のさえずりも、人ならざる者たちの気配もなく。
世界から切り離されたような静謐。
それが無性に落ち着かなくて、千尋は口を開く。
「…いつもの斑より、あったかくないよ」
「そうか。私はいつもより、お前の温度がわかって心地好い」
暗に本来の姿に戻って欲しいと言ってみたつもりだったが恥ずかしい台詞に返り討ちに遭う。
かあ…っと顔が熱くなって、静かなのに自分の心臓だけがうるさい。
クス、と斑が笑ったような気がした。
「こんなに柔らかかったのだな、お前は」
「なっ……」
「しかもいい匂いがする。うまそうだ」
「〜〜〜〜〜っ!?ちょ、や…っ!」
照れ半分、焦り半分で慌ててもがく。こいつは確か人も食べるほうの妖怪だ。
しかし全力で抜け出そうとしたのに斑は離してくれなくて、中途半端に逃げようとしたせいで至近距離に斑の…いや夏目の…否、夏目の形をした斑の顔があって余計に顔が真っ赤に染まった。
口の端をつり上げる斑。悪い笑顔。
「食わせろ」
「…んっ……」
噛みつかれた唇は、しかし、優しく。
後頭部に手を添えられて、まるで隅々まで味わうかのように深くなる。
ゆっくりと優しく追い詰められて、溶けてしまいそう。
「……っは、ぁ……」
やっと解放されて荒い吐息を漏らしながら斑の顔を見上げれば、彼は心底満足そうに目を細めていた。
「甘い、な」
余裕たっぷりに呟く。
間近で囁く低音に、また鼓動が早くなった。
「七辻屋の饅頭より甘い。次からは菓子の代わりにお前を頂こうか」
後頭部に回されていた手が千尋の髪を梳く。
その手付きに、そして口付けの余韻に、足下がふわふわするような。
好きだなあ…。うっとりと、思ってしまう。
絶対、口にはしないけれど。
「……ばあか」
こてん、と斑の胸に頭を預けた。
ひんやりと冷たい手は千尋の頭を撫で続けてくれる。
偽りなきぬくもりを
満たされた気持ちが胸いっぱいに広がる反面、自分ばかり赤くなっているのが少し寂しくもある。
願わくば、この熱すらも共有したい。
20120221