夏目
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ニャンコ先生は茂みから出て行くか素通りするかをしばし考え、結局出て行くことにした。
見回りと称して夏目をおいて一人森の奥へ散歩に来てみれば、枯れた木立の陰に見知った少女がいるのが見えたからだ。
小生意気な人の子なのだ。知らぬフリをして立ち去ろうとも思ったが、忠告してやろうと思う程度には気に入っている。
「おい小娘」
声をかければ緩慢な動作でこちらを見て、
「ああ、斑、だっけ。なにしてるの、おまえ夏目の用心棒でしょう?」
「気にすることはない。今は非番だ」
「いいの?用心棒がそんなんで」
クスクスと笑う千尋。
イタズラっぽい眼差しは自分の姿よりよほど猫のようだと思う。
それはさておき。
ニャンコ先生は千尋のもとへやってきた目的を果たすことにした。
千尋が寄りかかっている木を睨みつける。
「小娘、一つ言っておくが……今貴様が寄りかかっている木はただの枯れ木に見えるが歴とした妖怪だ」
「知ってる」
「……」
ニャンコ先生の言葉に木の妖怪がなにか反応するのではと思ったのだが、こちらは微動だにせず。
「大丈夫だよ、斑。友達だから」
「妖怪に心を許しすぎると痛い目をみるぞ」
これは夏目によく言う台詞だな、と内心苦笑する。
どうも最近の人の子は身の程を知らないのが多い気がしてならない。
「人同士だってそれは変わらない」
「なんだと?」
「人相手だったら絶対に心を許せるのかってこと。問題は人か妖怪かじゃなくてそいつと気が合うか合わないかだって、私は思ってる」
「そういうことを言っているのではなくてだな、」
「祟りや呪いをもらうって?私はそんなもの平気だよ」
と、自信満々に言ったかと思えば、すう、と眠りに落ちてしまう。
なんて無礼な。話している途中で眠りに落ちるなどと。
ニャンコ先生がしばらくその場を離れなかったのは、千尋が起きたら説教の一つでもくれてやろうと思ったからであって。
決して森の中に眠っている千尋を放置するのが気がかりだったわけではない。
「わあ!咲いた咲いた!」
千尋の歓声で目を覚ます。
そこで初めて、自分までまどろんでしまっていたことに気付いた。とんだ失態だ。
「よかった、元気になって」
木の妖怪に千尋が抱きついている。
だからそうやって無闇に妖怪に、と言い掛け、ニャンコ先生は驚いて絶句した。
先程までは枯れ木の妖怪と思っていたのに、枝葉は息を吹き返し、茂った葉の中に大輪の白い花がいくつも咲き誇っている。
木のウロが顔の形になって、その表情は穏やかに微笑んでいた。
「ありがとう、千尋。おまえのおかげで私はまた咲くことができた」
「気にしないで。私も花が見られて嬉しい」
ざあ、と風が吹いて木の葉が舞い上がり、視界を隠す。
それが収まった時にはもう木の妖怪の姿はなかった。
どこへ行ったか、おそらく住処か妖の世に帰ったのだろう。
それにしても、ありがとう、とはどういうことだ。
千尋はなにをした。呪術の類の痕跡は無い。まさか…!
「っ、と……」
突然千尋がよろめいて地面に座り込んでしまった。
それを見てニャンコ先生は確信する。
「お前、奴に妖気を吸われたな?」
ほら言わんこっちゃない、妖怪を甘く見るからだ。
ニャンコ先生が意地悪く目を細めた。
しかし千尋は頬を膨らませて、
「失礼な。人を間抜けみたいに言って。吸われたんじゃなくて、あげたの」
「…!」
今度こそ絶句する。
正気の沙汰とは思えない。
「自分から差し出すとは何事か!下手をすれば命を落とすまで力を吸われていたぞ!」
「平気。あの子はそんなことしない」
「なぜそう言い切れる。相手は妖怪だ」
「妖怪だけど、友達だから」
「貴様の言い分は詭弁に過ぎん。人の子が妖のためにそこまでするなどと馬鹿げている」
「…弱った友達を助けることのなにが悪い!」
キッ、と睨みつけてくる意志の強い瞳。
しばしそのまま睨み合う。
突き刺すような覇気の込められた眼差しに、かの斑といえども眼を逸らしそうになる。
辛くもニャンコ先生がプライドを守れたのは、千尋がぱたりと倒れてしまったからだった。
まったく反撃の気配が見られなくなったその頭を短い前足でつついてみる。
「……おい、小娘」
「はあ…もうダメ。さすがに力が入らないや」
つい先程とは打って変わって、へらりと力なく笑う。
一体どっちが本性なのだかわからない。
わからないが…なぜだか不快とは思わなくて。
復活して家に帰れるのは夜中かなあ、などと千尋が言うものだから、ますます放っておけなくなってしまった。
「ちっ」
どろん、とニャンコ先生の身体が煙に包まれる。
次の瞬間姿を現したのは大妖怪・斑の本当の姿だ。
白銀の体毛の一筋一筋が木漏れ日を受けてきらきらと煌めく。
それを千尋はじっと見詰めて、こぼれるような呟きを漏らした。
「わ、あ……綺麗……」
心なしか紅潮した頬。
「それが斑の本当の姿?」
「ああ。…なにをそんなに見ている」
「だってこんな綺麗な妖怪初めて見た…!」
調子が狂う。さっきまでの威勢はどうしたと言いたい。
面と向かって綺麗だなどと言われることは今までなかったものだから、どう反応したらいいものやらわからなかった。
…が、悪い気がしないのも事実だ。
「乗れ、送ってやる。家はどこだ」
「うぇ!?と、隣町…」
なるほど、夏目と同年代に見えるのに普段見かけないのは生活圏が違うからか。
わざわざ休日に遠くまで来るなんてご苦労なことだ。
千尋はふらふらと覚束ない足取りで、それでもなんとか斑にしがみついた。
風を切って斑は飛び立つ。
森が、川が、町が、みるみるうちに小さくなっていく。
斑には慣れた高さだが、この勝ち気な小娘もさすがに本能的な怖さは感じるのだろう。
ぎゅっと体毛を握りしめてくるのがなんだか妙にこそばゆい。
風は冷たくないか?
速すぎて振り落とされそうになってないか?
つい口にしそうになって、ぐっとこらえる。人の子ごときに、ましてやこの生意気な小娘に心配じみたことを言うのは癪に触る。
しかし、夏目を乗せて飛ぶ時にはそんなこと気にしたこともなかった。
己の心の動きに少し戸惑う。
そんなむず痒い気を紛らわすために、斑は全く別の話題で千尋に話しかけた。
「お前は夏目と似ているな」
「…嘘でしょう?どこが?」
「人の子の分際で妖怪と関わろうとしたり、情けをかけたりするところだ」
「…そうなの?あいつ、妖怪は危ないってうるさく言うから妖怪嫌いなのかと思った」
「どちらかといえば妖怪寄りの困った人の子だ。お前の身を案じたのだろう」
「ふーん、弱そうなくせに。夏目って私より細いよ」
「…気にしているから本人に直接は言ってくれるなよ。夏目の奴は危険な目に合うのは自分だけでいいと考えている節がある」
「それは…大変だね、用心棒」
「まったくだ。だが、一つ大きな違いを見つけた」
「なになに?」
「奴は私の高貴な姿の美しさが理解できぬということだ」
「あはははっ」
高らかな笑い声を聞いて、斑はなんとなくわかったような気がした。
大抵妖怪に近付く人間は、人同士の関係がうまく築けなかったり、孤独を抱えていたり、どこか暗いところを持っているものだ。
往々にしてそれは妖怪のせいなのだが、そういうところが妖怪につけ込まれる。
だが千尋にはそれがない。
真っ直ぐで、快活で、なるほど付け入る隙が見当たらない。
妖力はそこそこだが、食うより観察していた方が面白いような気がしてしまう。
己が夏目の傍にいるのと同じ道理か、と斑は考えた。この千尋という人の子は、こういう思いを多くの妖に抱かせてしまう性質の娘なのだろう。
夏目やレイコとはまた違った意味で面白い。
その証拠に、厄介ごとは夏目だけで十分だと思っているこの自分ですら、こんなにほだされてしまっている。
暖かな体温を感じながら空を駆けるのも悪くはないと、斑は思った。
20120224