夏目
□或る日見た空
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「あ……」
聞こえるか聞こえないか程度のか細い声を夏目が漏らす。
彼の視線は空に向けられていた。
つられて千尋も空を見上げる。
河原の土手に腰を下ろして見上げる空は広い。
柔らかな陽が注ぐ。
澄んだ青に点々と散らされた白雲。
その空が、揺らいでいるように見える。
穏やかな水面のように、ゆるやかに。
「なんだろうね」
クス、と千尋は微笑む。
「そうか、千尋も見えるのか」
どこか嬉しそうに、その事実を噛みしめるように夏目が言った。
なにを今更、と思わないこともないのだが、こういう時に夏目が見せるはにかむような笑みが千尋は気に入っている。
同じモノが見えることにいつになったら慣れてくれるのかが、今の千尋の密かな楽しみの一つだ。
「ばっちり見えてるよ。空が水みたいに揺れてる」
「ああ。すごいな…」
夏目の感嘆が空に寄せられたものなのか、それとも千尋に対してだったのかはよくわからない。
また二人揃って空を見上げる。水面のような揺らぎはほんの微かなもので、見える体質の者でもぱっと見だけでは見逃してしまいそうだ。
目の前には穏やかに流れる川。そして頭上にも水面。
風が通り、さあ、と草葉が鳴った。
「千尋は……いつから見えるようになった?」
「物心ついたときには、もう。夏目は?」
「おれもだ。幼い頃は人と妖の見分けがつかなくて、いろいろな人に不快な思いをさせてしまっていた」
「そっか……」
「千尋の家なら、見える子供が生まれて喜んだんだろうな」
にこりと目を細める夏目。
彼自身は妖怪絡みで大変な苦労をしたと聞いたが、それでも今は純粋に千尋の周りが暖かかったことを期待してくれている。
どこまで無欲なのだろうか、夏目は。
少しくらい羨んでみせたって構わないのに。けれどそんなことを言えば、夏目は困ってしまうのだろう。
彼の心を言葉で解きほぐすのは、雲を掴むより難しい。
「たぶん、そうだと思う。親戚みんな寄ってたかって構ってくれたのはよく覚えてるなあ。人間・妖怪どっちでしょうクイズとか…」
「ま、的場さんとこってそんなアットホームな感じなのか…?」
「言っとくけど家のみんながみんな、的場静司みたいなのってわけじゃないから!まともな人のほうが多いよ」
「……やっぱり想像できない。でもなんだか楽しそうで、よかった」
夏目が微笑む。
けれどそれは、なにかを抱え込んで、隠しているような切なさを秘めていて。
千尋の胸がチクリと痛む。
辛そうな顔してそんなこと言わないで……と言おうとした時だった。
「あ、れ…?」
ひらりひらりと空から舞い降りてくる、白い…雪のようなもの。
しかし今は雪が降る季節ではないし寒くもない。
怪訝な顔を見合わせた千尋と夏目は揃って空を見上げた。
先程と同じく水面のように揺らいでいること以外はいつも通りの空……に見えた。
次の瞬間までは。
「わあ!?」
ごう、と強烈な風が吹きつけたかと思えば、遠くの森の方角から真っ白な巨体が姿を現す。
蛇のような、否、龍だろうか。
全長で何メートルあるのか想像もつかない。距離感の掴めないほどの大きな龍が背をゆったりとくねらせながら舞い、空の水面には軌跡が刻まれるとともに激しい波が生じている。
龍の身体を覆う真っ白な鱗の一枚一枚が陽を受けてきらきらと輝く。
「すごい…!」
強風に踊らされる黒髪を手で押さえながら、千尋の視線はその龍に釘付けになっていた。
「すごいよ、夏目!」
「ああ…」
雪だと思ったものはよく見るとその龍の鱗のようだ。
龍が通った道筋を示すように降り注ぐ。
千尋は目の前に落ちてきた鱗の一片を手で受け止めた。
夏目が手元をのぞき込んでくるのとほぼ同時、鱗は光に姿を変えてほろほろと崩れ落ち、微細な光の欠片となって風に溶けていく。
しばし上空を飛び回っていた龍はなにかの道標を見つけたかのように進む方角を一つに決めた。
ちょうど夏目と千尋の目の前にある川を遡るように、出てきた森からさらに上流のほうへと飛び去っていき、やがてその姿は見えなくなる。
龍が通った道には鱗が降り注ぎ、まるで川を光の欠片で彩った絵画のような光景が広がっていた。
そのあまりの美しさに千尋は、ほう、と感嘆の息を漏らす。
風も収まり、空を見上げるとあの水面のような揺らぎはなくなっていた。
「お前たち、あれを見たのか」
と、茂みがガサゴソと揺れ、丸いシルエットが姿を現す。
「ニャンコ先生。いたのか」
「誰に向かって言っている。私は用心棒だぞ。しかしお前たち、珍しいモノに会ったな」
ニャンコ先生はにやりと不気味に眼を細め、夏目と千尋を見上げた。
今訪れたモノは各地を飛び回る性質の豊穣の神の一種なのだと、ニャンコ先生は言う。
「あれが来たということは、今年は豊漁の年になる。いい酒の肴が期待できるぞ」
「来ない年もあるのか?」
「そうだ。何年に一度か、それとも何十年に一度か、周期ははっきりせん。いつどこを訪れるかはまったくの謎だ。言葉を交わしたことのある者は、少なくとも私の聞く限りではいない」
「へえ…」
小さく呟いた夏目は龍が飛び去った方角をじっと見つめた。
軽やかな足取りでその横に並び、千尋は夏目の表情をのぞき込む。
遙か彼方に想いを馳せる夏目の眼は綺麗に澄んでいて、どこか憂いを帯びていたけれど、同時に満ち足りてもいるような不思議な眼差しだった。
「ね、夏目」
夏目の右手に自分の左手を重ねる。
一瞬だけ夏目は肩を強ばらせたけれど、それには気付かないふりをしてぎゅっと手を握りしめた。
「千尋…?」
妙に解放されたような気分なのだ。あの龍のおかげだろうか。
今なら夏目の心に近付けると思った。
「すごいよ。今の、きっと私たちしか出会えてない。見える力があって、たまたまアレの通り道にいて、偶然空を見上げてた。これってすごいことだよ、夏目」
妖怪が見えることで大変な苦労をした。
見える力を持つことを一族に歓迎された。
対極の境遇すら、この奇跡のような邂逅の前には些末なこと。
「だから、それだけでいいんだと私は思う」
「それ、だけ…?」
「楽しかったことも苦しかったことも、全部今に繋がっていて、こんなに素敵な偶然を私たち、一緒に見られたんだから!」
頑なな夏目の心を全部すくい取りたいと願って、千尋は夏目の手を握る力を強めた。
夏目が眩しいと形容する、晴れやかな満面の笑みを浮かべて。
「…ああ、そうだよな。優しい人たちに出会えて、暖かい場所があって、」
どこか儚げに、それでも幸せそうに、夏目が眼を細める。
「隣に千尋がいる今を大切にしたいって、俺も思う」
笑っているくせに泣きそうな夏目は、繋いだ千尋の手をそっと握り返してくれた。
或る日見た空
20120326
夏目は心の中に他人は踏み込ませない境界線を引いてるんだと思う。
周りの人がみんな「ここから先に入れてくれないなあ、いつか入れてくれるかなあ」って遠巻きにしてるラインに率先して突撃していくヒロイン。少しずつほだされていく夏目。