ばさらしょーと

□無知の愛
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「さわらないで」
「うるさい」
「おねがい」
「だまれ」
「きたない、から」
「しってる」

言えば、貸してやった左肩の方から、鼻を啜る音がした。

この場合俺は佐助にティッシュとかハンカチとか、渡すべきものがあるのだろうけど、
俺は左肩を貸している上に、ひとりで立っていられなきくらいぐったりした佐助を、右手で支えながら引きずるように歩いている。

この状況では(多分これを止めた瞬間に佐助の意識はブラックアウトする)いささか難しい話だった


「降ろしてってば」
「歩けねえくせに」
「歩けるし」
「Don't lie.」
「…肩汚れるじゃん」
「Who cares?」
「日本語しゃべれ ばか」
「てめえこそ黙ってしがみついとけよ」

申し訳程度の余力も虚しく、力をなくし、だんだんとずり下がっていく体を持ち直した。

あの時、触れた頬についたのはなんだったんだろう。

(血か、涙か、鼻汁か、)
(あるいは、)

「これに懲りたら、もう大人しくするんだな」
「はあ?俺なんも、悪くねえし」
「男だったら護身くらいできろよ」
「相手が男だったんだから、しょうがないじゃん」
「…じゃくいなあお前」
「うるさい」


佐助の容姿はよく目立つ。

特に、その夕陽を思わせるその朱い髪は、良くも悪くも佐助を佐助たらしめるものである。
そしてまた、どういう訳かよく人を惑わせるのだ。

さっき公園で殴り飛ばしてきた奴は、俺が知らない男だった。

聞けばどうやら、佐助にも面識がないらしい。なんなんだ誰なんだあれは。

「そういや政宗」
「なんだ」
「俺のチャリキーってさあ」
「無かった」
「え、」
「チャリの鍵も家の鍵もハンカチもテッシュも」
「金は?」
「きれいに残ってるぜ。財布はないが。」
「何それ寒気する」
「何を今更、ストーカーなんざそんなもんだろう。」


理解しろとは言わないが、いい加減どんなものかくらいは知ってほしい。

そしていつもぼろぼろになった佐助を拾って、ストーカーにお引き取り願っている自分のことを認知してほしいものだ。

なくなったものは代わりを買えばいいし、鍵だって新しいのを付ければいい。

するか否かは別として、ものに関してならどうとでもなる。

それに、被害だけなら前例の如くその髪のために丸坊主にされたときよりましだと思う。

ただもし心中志向の奴に目当てのものを奪われたら、それはもうどうしようもないのだ。


「ねえ政宗」
「なんだ」
「もう俺やめたい」
「なにを」
「俺が、俺を」
「suicide?」
「まさか。俺が俺たるのをやめたいの」
「やめろよそれ、絶対ややこしい」

中二か。そうでなけりゃ学者になりたいのかそっちの方面の。

まずそもそも自分が何かという話さえ、哲学者があれこれ考えていた遥か昔からの命題だというのに。


何が自分なのか、自分らしさとは何か、アイデンティティーとは何か。

心と云うもので考えるなら、それは単一の首尾一貫したものではなく、いくつもの意識を構成する要素が集合したものであるという。

すると、この時自己とは必ずしも確かな首尾一貫ものではないといえる。

では自分らしさを探すというのは、どういうことだというのか。


「政宗はさあ、俺の何があれば俺だと思う?」

「identity?」

「そう。俺らしさ」

「橙の地毛とか、声とか、その荒れた手とかのことか?」

「それじゃあ俺が坊主にして声枯らしてつるっつるの手になったら、俺は誰になるのさ」

「坊主頭でしゃがれた声でやたら手が綺麗なのがidentityな佐助になるだろ」

「そんな不確かなの?俺って」

「お前も俺も突き詰めれば60兆そこらの細胞の集合だろ」

その髪を色づけるのも、その声を発する器官も、皮膚も、その思考の場である脳も、全部、顕微鏡でみれば細胞だ。

言ってしまえばそれは、たったの28日で全てが違うものになる。
自分らしさを演出する基盤は一ヶ月たらずで一新されている。


「厳密にいやあ、佐助を佐助たらしめてるのはその細胞だろ」
「身も蓋も無い」
「だからめんどくせえっつったろ」
「政宗は俺のことすき?」
「愚問だなあ」
「じゃあ政宗は、俺の細胞ひとつひとつが愛しいの?」
「idiot そこまで見えるかよ」


てめえが人に世話を焼くのは、そいつの手の細胞が水分不足に喘ぐからか?

と問い詰めたかったが、考えるまでもなく自明なことだ。
きっと不毛なやりとりになる。

「ふうん」
「…あ」

見慣れたクリーニング屋が見えてきた。
ここまで来れば、角を右に曲がって15mあるき、古い平屋を左に曲がってマンションの階段を上がり、部屋の鍵を開けて中に入って佐助を風呂につっこむだけだ。

「もう着くぞ」
「んー」
「なんだよ急に」
「話終わったらなんか疲れがどーって」
「…stupid」

散々難しいことを言ってめんどくさい話に付き合わせていた佐助が、またおとなしくなった。

口数が減ってまた少し肩が重くなった。腹が痛み始めたらしい。
そりゃあ、あんな公園で身体を冷やせば、腹だって頭だってどこだって痛くなる。

とんだ後難だろうが、いい加減これに懲りればいいとも思う。


「せめて右で担いでよ」
「なんでだよ」
「あんたの視界が狭くなる」
「お前がみえるからいい」
「なんでだよ」
「お前がお前だからだよ」
「訳分かんない」
「I love you」
「え」
「そう言や分かるのか?」
「…なにそれ寒気する」
「ha!今更だなあ」


こんなに甲斐甲斐しくしてやってんだから、いい加減隣で大人しくいてほしいもんだ。


ソクラティックラブ

(そりゃ考えるのも大事だけどよ)

(考えて考えて自家撞着を繰り返すより、好きは好き、嫌いは嫌い、嬉しいは嬉しいって感じでさ)

(そういう曖昧で不可視なもんで捉えた方がいいことだってあるじゃねえか?)


タイトルは、RA/DWI/M/P/Sより





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